ヒント10 / エクストラヒント

生まれる。
勇太と名付けられる。
父親にとっては第一子にして長男。
母によると生まれたとき父親は喜びで涙していたらしい。
しかし生まれてまもなくすると、夜泣きに激怒した父親は母と僕を連夜屋外に締め出していたらしい。

ある日母に連れられて訪れた店で、数十円程度のお菓子をねだり買ってもらった。きれいな花の形をした砂糖菓子だったように記憶している。家に帰りそのお菓子を父親が見つけ、金がないのに何故こんなものを買ったのかと母を叱責し殴打。
そして母からお前のせいだと叱責され殴られた。
一番古い虐待の記憶がこれ。

母が父親に殴られ、そしてその腹いせに僕が母に虐待されるというルーチンが早々に完成する。

無視、
殴打、
首を絞める、
濡れ雑巾を顔に当てて押さえつける、
真冬に裸足のまま外に出される、
思い出せる範囲内だけでもなかなかにえぐい。

父親は当時駆け出しの自営業。極貧。その割に外面や体裁を過剰に気にする。家庭では最低の人間丸出し。自営業と言っても、一社依存の電気部品の製造業で雇われ人と何ら変わらない状況だった。無駄にプライドが高すぎて単に社会に馴染めなかったのを一匹狼を気取っていただけとしか思えない。

後に知った話なのだが、僕の卒業した中学校でいじめによる生徒の自殺があった際に「子供と共に育つ会」などという会を父親が発足させていたらしい。DVで家庭を破綻させた男が何故こんなことをしていたのか本当に謎である。

ある日、母が授業参観時に大縄跳びでアキレス腱を切断、そのまま入院。当時母は父親の事業を手伝っていたため、母が入院すると仕事が回らなくなる。
案の定、父親が病院を訪れて激怒。
「明日から仕事どうするんだよ!!!」
僕にとってこの程度は日常なので特になんとも思っていなかったが、周りの人はドン引きだっただろう。

ある日、原因が何だったかは覚えていないが、家の前の道路で父親が母の髪を掴んで引きずり回していた。翌日近所のおばさんが「勇太くん大丈夫?」と気遣って声をかけてくれたらしい。「いつものことだから」と答えて平然としていたという。

友達の家でお泊り会が催される。
親子みんなとても仲が良いことに衝撃を受ける。
父親は母を罵り殴りつけ、母は子に当たる、子は親の顔色をうかがってビクビクしながら日々をやり過ごす、家族とはそういうものだと思いこんでいたのだが、このときようやく自分の家が特殊だったことに気づく。
それ以降、幸せな家庭に渇望と憎しみを覚えるようになる。

小学校高学年になり、体が大きくなってくると自然と母からの虐待は止まったが、代わりに自傷行為を始めるようになる。
彫刻刀やカッターナイフを指と爪の間に徐々に刺し込んでいき、爪が完全に指から剥がれると、前歯で噛み挟んで一気に引き抜く遊びをしていた。最初は手の指でやったのだが、怪我が目立って面倒なことになったので次から足の指でやるようになった。
思春期に入るとその頻度は増して、10本の指ではサイクルが間に合わなくなっていく。その結果、爪をカッターナイフで縦に4つに切り分けて、バナナの皮を剥くように少しずつ剥がしていくことでなんとかサイクルを保っていた。

この辺りで自分の中に何かがいることに薄っすら気づく。一人で爪剥がし遊びをしている最中、常に誰かに見られているような気がしていた。

高校1年生のとき母親が家出、その後両親離婚。
僕は学校に好きな子がいたため自らの意思で父親の下に残った。

その後色々と荒れる。
当時の担任の先生曰く、自宅に放火する勢いで狂っていたらしい。

所属していた吹奏楽部に居場所があったおかげで幸い不登校にはならずに済んだが、保健室と音楽室を行ったり来たりする高校生活後半を過ごすことになる。
今思うと吹奏楽部の連中はこんな頭がおかしな僕を暖かく迎え入れてくれて、控えめに言っても聖人しかいなかったのではないかと思えてくる。本当にありがたい。

高校2年時、交通事故を起こす。
外傷性クモ膜下出血との診断。普通に死にかけた。

事故後心身に変化が起こる。

目覚めた直後、手のひらで触れた物の色が何となくわかるという不思議な体験をする。この症状は数日後には跡形もなく消え去っていたので何だったのかは未だにわからない。

音階が直感的に認識できるようになる。
吹奏楽部ではパーカッションを担当していたのだがその理由は楽譜が読めない音楽初心者だったから。そもそも吹奏楽部に入った理由は女の子率が高かったからで音楽には特に興味もなかった。にもかかわらず事故以降は直感で曲書きもできるようになり、高校3年時には毎月のように自作曲がコンピュータミュージックマガジンという音楽誌に掲載された。
更に数年後にはヤマハの作曲コンテストでファイナルまで残る。

吹奏楽部の最後の演奏会を終えたところで、母親に引き取られる。
担任の先生が僕の状況を母に伝えたらしい。
当時の担任の先生と保健室の先生、吹奏楽部の仲間には感謝しか無い。

北海道に引っ越して新しい高校生活が始まったものの、当然のように周りに馴染めない時期が続く。友達もおらず勉強しかすることがないので放課後図書室でずっと勉強していたのだが、偶然数学の先生が図書室の管理担当だったことで仲良くなり、必要以上にかまってもらえて嬉しくなって勉強に身が入る。センター試験でかなりの高得点を取るが、やはり金銭的な問題から大学への進学は諦める。

早々に気持ちを切り替えて国家公務員を目指す。自分がすこしおかしいことは自認できていたので、理解できないながらも周りの人間の挙動を観察して学習し、なるべく浮かない行動をするよう心がけた生活を続ける。

徐々に社会に適応できるようになり、1年ほどで公務員試験の面接すら無難に突破できるほどに周囲に馴染むことに成功する。

このときは自分が「社会に適応できる人間に変わった」と思いこんでいたのだが、実際には「変わった」のではなく「入れ替わった」だけだったことに後に気づかされることになる。

社会に出るとやはり飲酒の機会が訪れる。若気の至りで泥酔する。
その際、酔いの勢いでかつての社会不適合だった頃の人格が出てきてしまった。その時は飲むと性格が変わってヤバイ奴、と思われた程度で大事に至らず済んだが。
以後、外では極力酒を飲まないようにした。
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このとき今の自分は本当の自分ではなく、造られた別の人格だったのだと確信する。

その後諸々。

母が肺がんになり片肺摘出。

公務員を退職。

アメリカに留学。

そして不意に「勇太」と再会する。

当時ヤマハの作曲コンクールでファイナルに残るという奇跡が起きて音楽にのめり込んでいた。

夢の中でものすごくいい曲が出てくるが、起きるとすっかり忘れてしまうという経験を幾度か繰り返していた俺は、枕元にテープレコーダーを置いたり、五線譜を置いたりなんとか夢の中の音楽を現実世界に引っ張り出そうと苦心していた。

夢を見ているときは、大抵自分自身を第三者目線から見ているような構図になるのだが、ある朝目覚めても自分を三者視点から見下ろしているままのような感覚にとらわれた。寝ぼけているだけかと思ったのだがどうも違うようだった。

勇太の人格だった。
自身が体から分離して、勇太を第三者的に見ているような状況になっていたのだ。

久しぶりに出てきた勇太は相変わらずアスペ全開で懐かしさすら感じた。
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その日以降、俺の体には俺と勇太が同居することになった。かつてのお互いがお互いを認識できない状態での存在ではなく、共に存在を認知しつつ同時に意識を持って行動できるという謎状況での生活が始まった。

加えて夢の中で夢であることに気づくことができるという便利能力が意図せず身に着いてしまったので色々と捗った。空を飛ぶことだってできるし、ドラゴンボールごっこも自由自在、もちろんエッチな遊びをしたこともあった。

勇太が戻ってきたことで大きく意識は変わった。
率直に、楽しかった。
他の人とは決して共有できない、虐待された日々をも分かち合える存在が近くにいることで、昔の悲しみや苦しみを全て笑い話に変えられるような気がした。
更に興味深いのが、幼少期に受けた虐待に類似する行為を女性から加えられることで性的に満たされるようになったこと。しかも一般的な性行為や自慰行為とは比較にならないような快楽が得られるので、他の人が見たことのない世界を見ているという変な満足感があった。
大分後の話になるが「それは女性の感じるオーガズムに近いかもね」と言われたことがある。女性は日常的にこういった幸福感を得ているのかと思うと少し羨ましく思った。生まれ変わるなら絶対に女性がいい。

余談だが、当時音楽誌に毎月のように掲載されて原稿料まで得ていたことと、前述のヤマハのコンクールの一件で、久々に出てきた勇太氏は音楽で食って行く気満々だった。当然俺はそんなことは絶対に無理だと一方的に棄却したのだが、この時の勇太の判断を尊重していたら今頃どうなっていたか?ということには多少心残りがある。決して後悔している訳ではないが、久しく if の世界を妄想してしまう一件だった。
若き日の小さな勲章は大いなる呪いと化すとはよく言われるが。

紆余曲折あり帰国。

色々あったが沖縄でなんとか生活基盤を確立。
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母親から電話。
肺がんが再発したと。
まあ手術の数日後にはもうタバコを吸っていたし、いずれはそうなるだろうとは思っていた。

ここで勇太が俺を無視して一方的に口を開いた。

「お前さ、生きてるだけで、そこに存在しているだけで周りに迷惑かけてんだよ。分かってる?鬱陶しいから早く死ねよ。」

電話がそっと切れ、後日母が死んだことを知らされた。
勇太にとって虐待は既に過去のことになっていたのかと思ったがどうもそうでもなかったらしい。あらゆる記憶を二人で共有できているつもりでいたが、開かれていない扉がまだあったということか。
勇太の中にまだ俺が認識できていない領域があったということは、逆に俺の中にもまだ勇太に伝わっていない部分があるかもしれないと思い、長らく思っていたことをストレートに勇太に伝えてみた。
「勇太が親を憎んでいることは解った。でも勇太も親に似ているところがたくさんあるよ。」

一瞬気まずい雰囲気になったが、程なく元通りの関係に戻っていったのでほっと胸をなでおろした。

磁石の同極が反発し合うように、仲の悪い人間同士の本質は似ている。自分が何となく嫌だな、と感じる人間は大抵自分に近い性格だったりする。勇太と父親を見ていてそれに気づけたのは今後の生活にも大いに役立った。

しばらくまた時は過ぎて結婚する。

虐待を受けて育った人間はいずれ虐待する側になるとよく言われる。
それは絶対に避けなければならない。
俺は勇太がかつて失ったものを取り戻すべく、妻を世界一幸せにしようと心に誓う。勇太も以前「親と似てる」と指摘されたことを気にしてか、幸せな家庭にできるよう協力を約束してくれた。

はずだった。

程よく勇太との同居を続けつつ夫婦仲も順風満帆、幸せな結婚生活が始まった。子供の頃求めて止まなかった仲の良い家族が手に入った。
嬉しくて泣いたのはこれが初めてだと思う。

帰国後に手を出したFXや結婚後に始めた事業が成功したのはほぼ勇太のおかげだった。

勇太はこれまでありとあらゆる理不尽を経験して、世は自分の努力ではどうにもならないことに溢れていることを体で感じ取り、運と直感に全振りすることが最適解だと確信していた。一方俺はと言うと、ほぼ他者参考によって作り出された人工知能のようなものなので、理論でしかものを考えられない堅物だった。

通常、自身の手に余る決断を要する事象が落ちてきた場合、誰か別の切り口から判断してくれそうな人に相談し意見を求めたり、利害関係者と考えをすり合わせたりなどのプロセスを経て最終判断することになると思う。これだと相当な時間がかかるし、意思の伝達において誤解が生じることもある。
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これが俺と勇太の場合、相談する以前に完全にリソースを共有しているので瞬時に答えが出る。言葉という誤解の生じ得るツールなど介在させず意思疎通が出る。普通の人が何時間もかけるところを、俺達は1秒でアウトプットできた。
パーマンというマンガで、ミツ夫とコピーロボットがおでこをくっつけるだけで考えや経験を一瞬で同期できるのに近かったのではないかと思う。

勇太の直感判断は後で理屈で考え直しても大きく外していることがあまりなかったし、勇太の方も俺が追って理論的に見直すので都度躊躇せず判断できると信頼してくれていた。

投資や事業を上手く回す上で自身を客観的に見て物事を判断することは重要と言われる。正反対の2つの人格が同居している以上、常にお互いを客観視していることになる訳で、そう考えると失敗する要因は端からなかったのかも知れない。
全てが上手くいっていた。

ある結婚記念日のこと。
妻の両親は定期的に通院が必要な状態で、兄弟持ち回りで病院に付き添っていた。たまたま妻が義父を病院につれていく日が結婚記念日とバッティングしてお祝いディナーが延期された。

特に俺は気にしていなかったのだが、勇太は違った。自分の母親にしたのと同じことを義父にしようとしていたのだ。事次第では直接殺そうとしていた可能性すら感じられた。
やっと手に入れた幸せな家庭を義父に奪われると、刹那的に思ってしまったのかもしれない。
俺は脊椎反射的に勇太を握りつぶした。何をどうしたのか全く分からないのだが手応えは間違いなくあった。
心の外壁にこびり付くような粘っこい、不快な感覚が未だに居座っている。

勇太の人格を認識できなくなった。
本人の生まれ持った人格が消し去られ、後に作られた不完全な人格がその体に取り残される、そんなことが起こり得るのだろうか。

かつて泥酔して意図せず勇太が出てきたことを思い出し、酒を浴びるほど飲んでみたが、もう彼が現れることはなかった。
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元より勇太の人格を表に出すことはなかったため生活自体にそう大きな変化はなかった。最初の頃は勇太頼みだった事業や投資についても既に基盤が出来上がっていたこともあり、しばらくは特に大きな障害にはならなかった。

しかしこうなると、これまで当たり前だった勇太の直感、圧倒的な判断力に頼ることができなくなる。俺はいちいち理屈で考えすぎて、面倒な正義感やあるべき論に逆らえない。
認めたくはないが、歳をとると心もどんどん不器用になっていく。

全てが悪い方に向かっていった。
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