2024.09.04「阿部一族 他二篇」
昨日、読みたいと思っていた「興津弥五右衛門の遺書」を含む「阿部一族 他二篇」を読み終えたので、ご紹介したいと思います。
タイトル:「阿部一族 他二篇」
著者:森鴎外
出版社:岩波書店
私見:
肥後熊本城主細川忠利が亡くなった時は1640年代のまだ殉死が許されている時代(1660年には幕府が禁止)で、18人の家来が殉死した。家来であった阿部弥五右衛門には殉死の許しが出なかったが、周りから「阿部はお許しの無いことをいいことにのうのうと生きている」と陰口を叩かれて数日遅れて追腹を切った。
18人の殉死者の嫡子はそのまま父の知行を継ぎ、未亡人、老父母には扶持が与えられたが、後代の細川光尚は阿部弥五右衛門の嫡子である権兵衛の家格を下げた。権兵衛は面白くなく先代殿様の一周忌に自分の髷を切って位牌に備えた。この行為に激怒した光尚は権兵衛を縛り首にする。
残された阿部家の兄弟達は一族討手を受けて共に死ぬ覚悟を決める。この時の討手を受ける前の阿部一族の様子が生々しい描写で叙述されている。
「阿部一族は討手の向かう日をその前日に聞き知って邸内を掃除して見苦しいものはことごとく焼き捨てた。それから老若打ち寄って酒宴した。それから老人や女は自殺し、幼いものは手に手に刺し殺した。それから庭に大きな穴を掘って死骸を埋めた。」
全体を通してテーマは殉死で、殉死が江戸時代にどう扱われていたかがよくわかる。殉死は武士道としての忠義と潔さの発露として尊重されていたが、この小説では少々日本人の同調圧力的な動機が強く見られる部分もないとはいえない。
だから、純粋な武士道としての気高さだけから、殉死した人ばかりではないような気もするが、現代人よりも死ぬことを選択することは容易く、死について考えることが多かったことは確かだろう。そして、その分、どう生きるかをより差し迫って考える機会に恵まれていたのが、この時代に生きた人たちだったのかと思う。
殉死の是非を敢えてここでは問わないが、現代のように簡単には死ねない、長生きすればするほど良い、かすり傷を負うことすら嫌がる風潮の中で、人生の生き方を問い直すことは、当時に比べて難しくなっていると言えるだろう。