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なぜ、近自然森づくりに惹かれたのか

※ 2021/4/14 excite blog より転載

Naturnaher Waldbau(独)
close to nature forestry(英)
近自然森づくり(日)

2010年の夏にスイスでこの考え方に出会って、11年目の春を迎えました。

書いている本人の実績が伴っていないので、説得力があるかというと心もとないのですが、ああ、こういうことなのかなという解釈が人に説明できるようになったのが3年前くらい。学び始めてから既に7〜8年の歳月が過ぎていました。

定期的に振り返りをする作業をしていますが、いま改めて「なぜ、近自然森づくりに惹かれたのか」を自問自答してみたいと思います。以下、長くなります。

基本は、林業と環境は両立できると考えること

木を伐るのは悪いことか?というテーマと、林業者は長い間向き合ってきました。それはどの国でも森林破壊(森林の減少)の歴史というものを抱えているからで、木を植えることは再投資という意味だけではなく、その免罪符としての位置づけにもなったのかもしれません。

例えばヨーロッパにはモミやトウヒが、日本にはスギやヒノキという"優秀な"樹種がありました。優秀とは、育てやすくて使い勝手もいいということ。そして植えられるところは特定の針葉樹の植林による人工林が広がっていきます。

ところが、マーケットの変化に加えて、風倒木、病虫害の発生、生物多様性の劣化など、単純な構造・構成の森には問題があるのではないか、という機運が20世紀(特に後半以降)から世界的に高まっていきます。日本では花粉症の蔓延がこれに追い打ちをかけました。

これらの問題に対して勃興したのが、恒続林思想(1920年頃)や近自然森づくり(1950年代以降)などで、多様性のある森づくりのための様々な考え方が世界中で提案されています。

近自然森づくりとは自然に近い森づくりを目指すことで、自然がやることは自然にやってもらい、より少ない人間の介入で管理目的(木材生産、生物多様性、防災、レクリエーション)を達成しようとする考え方です。

そのココロは、林業と環境は対立するのではなく、両立できると考えること。

林業のために環境が犠牲になる、または環境のためには林業を我慢しなければならない。これが対立思考ですが、林業が良くなるほど環境も良くなる、環境を良くしようとすると林業も良くなると考えるのが両立思考。

そんなことができるかできないか、ではなく、まずできると考えて森に向き合うことで、何か解決策が見つかるかもしれない、という提案です。そのためには、前提を一旦捨てる勇気と豊かさとは何かという再定義が必要になります。

定義はルールではなく説明のための手段

スイスで近自然森づくりとは何か?と聞くと、非皆伐、多層、天然下種更新、適地適木を基本とすることだ、と返ってくるのですが、ただしその前に「林学的にはね」と必ず前置きがあります。

つまり、聞かれれば説明のためにそう答えるけれど、実際の仕事ではそんなことは普段意識はしていないということです。あまりかっちりした定義にこだわると、自然を相手にした林業ではかえって自分の首を締めかねないという現実主義の現れでもあります。

森林は所有者のものだけではなくて社会の共有財産だというコンセンサスのある国なので、フォレスターを始めとした林業関係者は、様々なステークホルダーの多様な意見(森に求めることが人によって違う)を聞いて、最大公約数を求めていかなくてはなりません。

そのために、近自然森づくりの考え方がいかに社会に貢献できるのか/できないのか。どうすればもっと貢献できるのか、という風に思考します。近自然森づくりは目的ではなく手段で、しかも時代の変化でどんどん変わっていくもの。

定義や意味合いにグラデーションをつけておいて、あとは現場で順応的管理(アダプティブ・マネジメント)をする。それは損得勘定から来るのですが、自分だけではなくみんなの損得を考えるので、だから続くという現実主義に、私はとても深い興味を持ちました。

ただし、これはスイス人の思考法であって、同じ中欧でもドイツやオーストリアではまた微妙にニュアンスが変わってくるそうですが、仏教の諸行無常との親和性に、とても驚いた思い出があります。

考え方の軸となる、様々な原理原則

私の近自然森づくりの理解は、スイス在住の山脇さんがまとめた原則原則なしには語れません。その一部を紹介すると、

・時代が変わるとは価値観が変わること:パラダイムシフト
  量から質へ(量は質の一部になる)
  集中から分散へ
  所有から利用へ
・何かのために何かを我慢しない:対立から両立へ
・はしごの継ぎ足しではなくゼロから考える
 登る山を決めずにルートの議論をしない:
  フォアキャストからバックキャストへ
・良いパーツを集めても、良いシステムにはならない:
  パーツ思考からシステム思考へ
・貢献にはボーナス、負荷にはペナルティを
・ノイズの少ない環境へ(良いランドシャフト)

人は何かをしようとする時、情報を集めてからどうするかを考えるが、それは調理器具を揃えずに食材を買いに行くようなものだ、というお話を聞いたことがあります。森づくりも全く一緒で、この考え方の軸を持っているか持っていないかで、集めようとする情報は変わってきます。

皆が「近自然森づくりをやろう」となったら気持ち悪い

それが実現出来るならば理想的ではないか、という近自然森づくりの考え方ですが、私達が森からの恵みを受け続けるための手段としてこれしかないのかと問われれば、そんなことは無いはずです。

多様性は大事です。あなたもそう思うでしょ?というのは自己矛盾に他なりません。矛盾はノイズ、ノイズは生き延びにとってマイナス要素。だからみんなが一つのことになびくという状況は気持ち悪く感じるというのが、近自然の解釈です。

なぜ情報の共有を続けるのか

スイスの林業を通して得られた情報や経験は、様々な手段を使って、できるだけ共有するようにしてきましたし、これからもしていくと思います。そういう行為に対して、なぜ情報を囲おうとしないのですか? という趣旨の質問を(好意的な解釈として)いただくことがあります。

理由は2つあります。

私の仕事のテーマは、キャリアが治山技術者として始まった立場から、一貫して「国土保全」または「国土防災」です。ずいぶんと大きく出たな、という感じでもあり、それって公共の(行政の)仕事では?という印象もあるかもしれません。

しかし、自然を相手にするテーマというのは、自然の循環の中にどう自分を位置づけるかということでもあって、人間を含む全ての生き物がこれに無縁ではない以上、大きいも小さいも、あるいは官と民という線引きもありません。だから、公共事業の仕事から社有林管理という森林所有者の立場に変わったときも、躊躇はありませんでした。

10年後どこで何をしているかは、なかなかコントロールはできませんが、何のために仕事をするのか(生きるのか)は、誰もが自分自身で決めることができます。何のために、を考えた時、どれだけ経営資源を使った情報やノウハウであっても、それを囲う、または出し惜しみをするという選択肢はありませんでした。

2つめの理由は、山仕事をしている限り、頭の中の資源は枯渇しないからです。同じ場所に通っても、森は毎日新たな発見をもたらしてくれます。むしろ、どんどんアウトプットをしていかないと、頭のアップデートが滞り、腐敗する感覚すらあります。それは、自然は変化し続ける存在であるのに対し、変化しない人は自然から見れば後退しているように見えるからだと思います。

アウトプットのやり方は人それぞれです。何らかの仕組みづくりを目指すことで目的に近づきたい場合は、実践と並行して情報を発信し、少しずつ同士を増やしていくルートを取ることになります。一方で、自分のフィールドで良い森を育てて残すことに集中すれば、後の世代がなんとかするでしょうという考え方もあります。

どちらが正解かではなく、恐らくどちらもあってよい、いや、どちらかだけに世の中が偏るのはよくない、と私は思います。この両者は相容れないようで、実は同じポーラスター(北極星)を違う山頂から見ているだけのことなのかもしれません。

森づくりが森づくりを超える時

冒頭で、人に説明できるようになるまで7〜8年かかったと書きました。説明できるということは心から納得したということ。そして、思うような間伐が少しずつではありますができるようになってきたのは、実はこの1年〜2年くらいの話です。それまでは振り返れば失敗の連続。

この先近自然森づくりの考え方に触れる方には、もっと早くその境地に達して、そして追い抜いていって欲しいと願っています。技術と考え方を体得してから 20年続けられたら、経営的にもそれなりの結果が出てくる、とスイスの人たちは言います。さて日本ではどうなるか。

私のほとんどの施業地はスギ・ヒノキ林からの誘導で、目標とする森に誘導できたとしてもあと数十年はかかりますので、結果を自分は見ることができません。やってみたけれどできなかったということもあり得るので、全てを変えてしまうのもダメ。

分かっているのは個人のリソース(残り時間や、かけられるコスト)は有限だということ。今年は自身が50歳になる年。いつ燃え尽きても良いように、会社も近自然森づくりの普及も、数年のうちに自分が関わらなくとも良い状況をつくり、あとは一線を引いてサポート(請われたときだけに出ていく)に回りたいです。

私の世代は、人口ピラミッドで最も人口の多いグループになります。すなわち、引き際をうまくしないと後の世代の禍根となるわけで、望まずとも一方的に切られていくことも容易に想像できます。年長者の役割が時代とともに変わっていき、何をしてきたか・何を持っているかではなく、どう貢献できるかがものさしになっていくはずです。少なくとも、技術や情報を囲い込んでマウントをとるという手段が通用しなくなることは明らかでしょう。

こういうことを考えるようになったのも、近自然森づくりの背景にあるリスクマネジメントを学んだからだと思います。そう、最も惹かれるのは、こうやって森づくりが森づくりを超えていく瞬間、でしょうか。

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