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偏見と差別の話

※2019/4/4 excite blog より転載

デリケートな話のメモ。

人種・民族差別や性差別に関わる国内外のニュースを頻繁に目にするが、同様に根深いのが職業差別の問題。つまり、社会に必要とされているにもかかわらず、賤しいというラベルを貼られる(そのことで何らかの不利益を被る)理不尽のこと。

務めている会社の親会社が3年前に変わった。それまで知らなかった業界のことを知るということは、自分がいかに偏見を持っていたかを知ることでもあった。だから、ある仕事に偏見を持っている人を安易に批判できない。それはほんの少し前の自分の姿だからだ。

偏見(十分な根拠もなしに対象を評価すること)は、単純に正確な情報が提供されていない、伝わっていないだけという可能性もあるので、対処のしようがある。しかし、差別(正当な理由なく不利益を生じさせる行為)の扱いはさらに難しい。

偏見は往々にして差別に繋がるが、偏見がなくなっても差別がなくなるとは限らない。差別者にとって都合が良いから差別するのであって、偏見は差別のきっかけにはなっても原因ではないこともあるからだ。

ある分野の差別にとても関心が強い人でも、別の分野の差別には全く配慮がなかったりもする。人間のそういういい加減さ、ご都合主義、節操の無さがこの問題の根本だと、自身の経験から(自戒を込めて)考えるようになった。

職業差別は人に対してだけ及ぶ現象ではない。例えば汗水たらして働いて得た収入は尊く、楽して(これも偏見の一種だが)稼いだお金は賤しい、というように、出処によってそのお金の貴賤を問う背景には職業差別がある。

それが差別だと言われて納得しない人も多いだろうが、この「商い」に対する差別が世界中で様々な問題を起こしてきた歴史を持つことは、もっと認識されるべきだと思う。

3年前に親会社が変わって様々な憶測が飛び交ったとき、社有林のお膝元である町役場からは、町長と町議会議長が親会社の一連の施設の視察に来てくださった。そうやって自分たちの目で見て確かめようとする姿勢から、地元行政に対する強い責任感を感じたのは自分だけではなかったと思う。

偏見があるだけなのか差別者かどうかは、より正確な情報に接したときに、それと向き合おうとするか距離を置こうとする(見なかったことにする)かで見分けることができる。

結局のところ、本人や属する社会の今と未来にとって何が望ましいのか、ということを真剣に考えていくと、偏見や差別は無くなりはしなくとも、自ずと減っていくものかもしれない。でも、なかなかそうならないのは、やはり人間というのは矛盾の生き物なのだろう。

性としてそこから逃れられないのであれば、さて、私達はどのように振る舞えばよいのか。そのように自分自身に問うてみる。

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