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意識的に生きる、無意識に生きる

こんなヴィジョンをみた。人間の体の周りに、自分の過去や集合意識から作られた信念体系がドームみたいにエネルギーの厚い層を作っている。(ドームに外部との境界線はなく、すべてと融合しているような気がする。濃度は違うかもしれないが。)無意識的に生きていると、この信念体系のドームのエネルギーをダイレクトに受け続けて生きるので、外側の出来事へのリアクションに始終し、今にいられない。そして本質の自分では生きられない。その人は見た感じも重たく、透明感がない。現実をそのまま維持するか、悪化していく。そして洗脳も受けやすい。

これが今の私が捉えた“私は個である”、という幻想のしくみのひとつの見え方。意識的に生きることで、このドーム型の信念体系にあるエネルギーを少しづつ解体し溶かしていくか、陰極まって陽となるような体験などで一気にこのドーム型が解け去ると、「“個の私”というのは思考の中にしかない幻想で、私はすべてと一体である」という本質が体感で感じられるようになる。

無意識的に生きていると、(男の、女の、家系の、民族の、日本の、人類のなど)集合意識の持つ習性がそのまま自分の習性となる。意識的に生きていると、自分の中で浮上した例えば男性の集合意識にある悲しみ、怒り、罪悪感、無力感や思いなどを客観化し、受けとめ、理解し、癒す。すると集合意識も軽くなっていく。

無意識的に生きるとそのまま集合意識の抱える歴史的な長年の怨念、怒り、悲しみ、罪悪感、無力感などが自分と一体化し、モンスター化する。そしてそんな自分を責めるという悪循環が生まれる。しかしひとたび意識的な人が現れると、その永続するかのように見えた循環を断ち切り、それは次の世代にも受け継がれていくことは終わり迎える。

無意識的に生きるのが悪いということはない。ただ自分がどう生きたいかだ。


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