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【短編小説】どこの誰かも知らない女


3週間前、好きな人ができた。

明るくてかっこいい女性。
かと思うと、触ったら壊れてしまうのではないかと思うほど彼女は脆く、儚い。
まるで闇夜を浮遊する小さな蝶々だった。
時折、きらめく鱗粉を振りまく。ミステリアスで魅力的な人。


「ミナミで良いわよ。」
「あ…ええと、じゃあミナミさん」

カクテルグラスを揺らしながら、ミナミさんはふふっと笑った。

薄暗いバーのカウンター。
1つの空席を挟んで、俺は初対面の彼女を直視できずに目をそらした。
半分ほどを残したグラスの飲み口に、赤いルージュがほんのりと付着していたのが妙に艶かしかった。

「失恋してヤケ酒、若いなーキミは。」
「ほんと自分が情けないっすよ。元々俺の浮気のせいで彼女を怒らせたってのに…」

ミナミさんが愉快そうに笑うのが、子供扱いされている感じがして悔しかった。
自業自得とはいえ、俺はこんなにもやりきれない気持ちだっていうのに。

ビールを勢いよく飲み干すと、マスターにウィスキーでいいですか?と聞かれる。いつもの定番コースだからだ。
しかし今日は少し違うものを飲んでみようかと思った。

きょろきょろとメニューを見てみるが、普段あまり飲まないカクテルコーナーは名前を読んだだけではどんなものが出てくるのかよく分からない。
少し悩んで、ミナミさんと同じ物を頼むことにした。


「お待たせしました、デビルです」

おお、すごい名前のカクテルだな…。
味の想像もつかない。無知識で注文したのを今更ながら後悔した。

「おっかないよコイツは。お子様の口にあうかな?」

人を煽ってニヤニヤする彼女が、くいっと残りを飲み干す。
頬づえをついて挑発的な上目遣い。闘争心に火がつく。くそ、どんなに強い酒だってドンとこいだチクショウ!

エメラルドグリーンの液体を舌の上に流し込むと、爽やかな甘さ、それから強いミントの香り。しばらくすると舌がピリッとした。香辛料かなにかだろうか。
大層な名前の割に、飲みやすいカクテルで正直拍子抜けだった。

「おいしいでちゅか?」

人を馬鹿にするのが趣味なのかこの女は。覚えてやがれ。


そんな調子で他愛ない話を延々としていた。
俺の失恋話、過去の恋愛話、仕事の愚痴、好きな女性のタイプ…。
時折、ミナミさんは俺の揚げ足をとって笑う。ムキになって言い返したり、ぐうの音も出なくなっていじけたり。
それが不思議と嫌ではなかった。俺はいじられキャラというわけでもなければ、マゾでもない。

どこの誰とも知らない彼女と話していたこの短い時間は新鮮なものだった。

ここ数年すっかり忘れていた高揚感と、どうしようもない飢えを俺に思い出させた。


その日、彼女は先に席を立った。

後ろ姿を見送るのが切なく、今日という日が終わるのが名残惜しいとすら感じる。
チリンチリンと高く鳴るドアベルが、まるで悪魔の笑い声のように聞こえた。


次にミナミさんに会ったのはそれから3週間後だった。

実は前回会った時、彼女は自分自身のことを何一つ話さなかった。
故意に隠していたというわけではなく、会話のペースが完全に彼女のものだったため俺が連続して質問を受けていた。といった感じだった。

それに気がついた時、自分の不甲斐なさにため息が出た。
あの人は“お子様”な俺より何枚も上手なのだ。


「隣いいですか?」
「あら、この間の」

にっこりと微笑んで鞄をどかしてくれた彼女を見て、いやいや騙されるな。と自分に言い聞かす。
いつものようにビールを頼んで、ミナミさんとグラスを交わす。
コツンと軽やかな音。彼女は上機嫌にみえた。

「キミってさ、こんなに大きかったっけ?」

不思議そうに首を傾げてから、まじまじと全身を見られる。なにかの検査をされているようで恥ずかしかった。
「こんな短期間で体格なんか変わらないっすよ」というと、ミナミさんはそりゃそうか。と笑った。

「この前は失恋してキミすごくショゲてたから、猫背になってて小さく見えたのかも」
「そんなに酷かったですかね…」

思わず苦笑いが出る。済んだこととはいえ嫌な所を見られてしまった。

「そういえばミナミさんってお仕事何されてるんですか?」

くたびれた俺のスーツ姿から想像は容易につくだろうが、自分が社畜リーマンって話は前回聞いてもらっていた。
彼女は2回ともカジュアルな私服姿だった。今日は初夏を感じさせる柔らかい素材のシャツにタイトスカートを合わせている。

「無職。ニートなの私」

相手は明るく言い放ったが、触れてはいけない話題だったのかもしれない。
なんと返そうか言葉を選んでいると、ミナミさんはふふっと笑って「あと」と続ける。

「改名したの。今はミナミじゃなくて、ヤマモト。」

話を理解するまでしばらくのかかった。
つまりどういうことだ?隣に座っている女が同じ言語を話す人間に見えなくなってきた。

「先週、離婚したの。」
「なるほど…」


明るいトーンを装った彼女の声がかすかに震えている。
ミナミ、じゃなくて山本さん。
笑顔で冗談を言って、茶化して小馬鹿にして笑って。
この人は、もしかしてあの時からずっと無理して明るく振舞っていたのだろうか…。


しばらくの無言。
この店はこんなに静かだっただろうか。

シェイカーの中で軽快に氷が踊る音、小さな談笑、落ち着いたジャズ。
暖かく灯るカウンターのキャンドル。揺れる炎と、心。

薄暗い店内はこの間とはまるで別世界だった。


彼女の細い指がカクテルグラスを傾ける。
赤い唇、長い睫毛、少し潤んだ瞳。整った横顔に吸い込まれるようだ。
こくりこくりと女の喉を通過していく液体は、この間と同じエメラルドグリーン。

頭が熱いのは酒のせいだろうか。
悪魔のささやきが聞こえたような気がした。


「俺、実は今ほっとしました」

きょとんとした顔で彼女はこちらを見る。

「だって、今フリーなんすよね?それって俺にもチャンスがあるって事じゃないっすか」

真っ赤になって目を見開く女性が愛おしいと思った。
明らかに彼女は動揺していて、口を震わせながら「大人からかってんじゃないわよ」と突っぱねる。

「山本さんが良かったら下の名前、教えてほしいんですけど。」

今にも泣き出しそうな赤い目で睨まれた。
それから少し間があって、小さくため息をついた彼女は「場所変えたい」と言って静かに立ち上がる。


ミントの香り、慰め合うようなキス。熱に浮かされた躰、理性から解き放たれた心。
飢えた悪魔は情熱と自由を讃えた。

次の朝、俺のシャツに擦れた赤いルージュの痕を見るまでは、その記憶がただの夢だったんじゃないかと本気で疑っていた。


End. 2019.05.05

3つのお題をテーマに執筆《シャツ》《横顔》《ミント》


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しのよしの
物好きの投げ銭で甘いものを食べたい。