アンハッピーアニバーサリーおよびリレーションシップ2度目の月命日
まだ2ヶ月しか経っていない。
ってこれ書いたことあるな一回。付き合って2ヶ月の時だっけ。私たちのリレーションシップが死んでから、2ヶ月がたった。奇しくも、私たちのリレーションシップは、それが始まった記念日に命日となった。でも英語では命日も記念日もAnniversaryだから、私の人生は誰か、割とチャーミングな、それでいて遊び心のある人が脚本を書いているのではないかとすら感じ始めた。
それはいいとして。
つい昨日がその日だった。記念日なんてものは、もうSちゃんは覚えていないだろうなと思う。もう連絡もこない。友達思いのSちゃんだけど、もう「友達」にはメッセージを返してくれない。潰れてぺしゃんこになった座布団から、何から何まで、彼女を思い起こさせる。
5月に引越しをすると言っていた。もうきっとあの部屋に私は戻れない。あの犬にも二度と会わない。新しい部屋には、私が置いて行ったあのキャップや、リングや、交換日記を持っていかないだろう。私がいた部屋を出て、私のことを思い出すことも無くなるだろう。彼女は前に進んでいく。私は未だに足踏みをしたり家に引きこもったりして、ずっと置いていかれて行ってしまう。
2ヶ月のあいだずっと、私は、私たちのリレーションシップの死を悼み、過ごしてきた。死は唐突で、理不尽だ。
犬が死んだ。母方の自宅で飼っていた犬が、老衰で死んだ。頭は悪いが、白い雲を集めたような綺麗な犬だった。ツイッターをみていると、同じ犬種の犬の写真をあげている人がいた。「ああこれ、ハッピーとおんなじだね」と母に声をかけて、気がついて口をつぐんだ。そうだ、もうあの犬はいないんだ。
お葬式という儀式の必要性を感じる。そうしたセレモニーに落とし込まないと、記憶は剥がれ落ち、当たり前に生きているものだと思い込んでしまう。脳に、別れを叩き込まないといけない。死を受け入れるための儀式として、あのながっちょろい念仏とか、黒い服は、なくてはならないのだと、犬の死から感じた。
さて、私はそろそろ、あのリレーションシップのお葬式をしなければいけないのかもしれない。みぞの鏡を見続けて、人生を台無しにしてしまう前に。
同時に、この出会いと別れは、偶然なんかではなく、奇跡なんてものでもなく、私たちは出会うように決められていて、別れるように決められていた、(It was meant to be.) ものだと確信する。この大きな人生というストーリーの中で、いつか伏線を回収していくはずだ。それがいつかはわからないが、「全てこれで正しかった」と思える日がくる。
Sweetheart, wherever you are,
Cheers.
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