当方極めてケチであるが、印象派展2024
絵の前に立つと、重く、静かだった。目の前の睡蓮を描いているようで、とても遠くのもののように感じた。この色が好きだったのだろうなあ、好きな色をたくさん使えてよかったね、と慰めたくなるような、合掌したくなるような。そういえばこの展示が始まってから、ふと、画家の目に入るものすべてが描かれているわけではない、という当たり前のことをやたら強く意識したのを覚えている。というか初めて気づいた。絵画というのは、つまり、そういうことなのか。戸外で描くことが手法として取り入れられたのが印象派の特徴と書かれていたが、それならば照明を浴びて額縁に入った状態は正なのか。自然光の下でこの絵と対面するとどんな気分になるのだろうか。その絵に至るまでの順路には画商と美術館の売買に関する手紙なんかも展示してあって、生々しく、ドラマチックだった。その絵は時空を超えて、いま、わたしの前にだけあるのだ。
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当方極めてケチな性分である。
溜めて溜めてまとめて片づければ安く済むと思っているし(何を、とは言わない)、100g150円以上の肉は高くて手が震える。一人遊びではまず交通費がかかる場所には行かない。お金を使うのが嫌だから、働いている方が楽だと考える始末。時給制の働き方をしているせいか、食費にしかお金を使わないような生活をしているからか、嗜好品やコト消費にお金を使うことが少なくなった。
三人で行く予定だった美術館。そのうちの一人が体調を崩してしまい、ぽっかりと休日が浮いた。なにもせず過ごすのも良いと思ったが、チケット代はすでに払っていた。けれど筋金入りのケチだ、行かなければ、最低限の出費で済む。誰かと行くならまだしも、一人で行くには贅沢すぎだ。
退勤中の電車でそんなことばかり考える。そんな自分に腹が立った。
(🗣写真撮影禁止か〜。
行ったらどうせポストカードとか買って、お金を使ってしまう。
明日雨だし。疲れてるし。
絵を見たからといって、何が変わるのか。
調べたらすぐに出てくる。複製もたくさんある。)
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必死にいかない理由を探していたわたしが美術館に行くまで。
わたしは歯を治療している。銀歯は免れそうだが、(精神的に)とても痛い思いをしている。よくあることだが健康というのは失って初めてそのありがたみに気づくもので、目も手も足も心も、突然悪くならないとも限らないのである。この目にいいものを見せよう。自分の心を喜ばせよう。そして一年前の今ごろは、一杯のコーヒーのため、一切れのケーキのため、一曲の音楽のために海を渡ったじゃないかと。ケチケチしない自分でありたいものだと奮い立たせた。
(🗣最後の決め手がお金である選択は、用心深く避けたい。
ここにいて、うまくやろうとするな。
心まで貧しくならず、
卑屈な自分でいることに甘えず。
いいものを受け取る自分でありたいじゃないか〜。)