巨大な秘密への侵入経路=セリフとはなにか。(「ゼンイとギゼンの間で呼吸する世界。。」→「口(しかく)」へ)
※この記事は、エンニュイのドラマトゥルクを担当している青木省二氏が寄稿してくれました。
□弔辞
本作「ゼンイとギゼンの間で呼吸する世界。。」では登場人物の「ガムくん」が喪服を持っていない、というシーンがあるが、喪服を持ってない、で思い出されるのは甲本ヒロトだろう。
当時の報道で例のシーンがハイライトだったのは、ヒロトってかっけー、とか、故・キヨシロー氏との関係っていいよね、ということよりも(そう思う人もいたにはいただろうけど)、もっと根本的な話として「甲本ヒロトって(いう存在は)喪服着ちゃだめなんだっけ?」という、うっすらとした違和感にその理由があったと思う。だってさすがに喪服を用意できないとは考えられないし、革ジャンは申し訳程度に黒いし、そうなると別に着てもよくないか、喪服、って感じなわけだが、曖昧な記憶でものを言ってはいけないので弔辞を改めてフルで見返してみる。
とのことで、改めて見ると思ってた以上に革ジャンありきというか、嫌な言い方になってしまうけど演出も白々しいほどなされた上での革ジャンで、似合いの革ジャンもこの時ばかりは本人と分離、衣装化し、また言ってしまえば、甲本ヒロトの目的はまさにあの葬儀の舞台化だったわけである。
考えてもみれば、葬式のシーンが演劇にしばしば登場するのは、単に葬式が容易に演劇になってしまうことの裏返しだが、そもそもの話として、ほとんど語られないものの、人の死を悼むこと自体に必ず矛盾というか、この弔辞に見られるような劇的で原理的な二重性があるからだろう。
人の死が完全な無であることはみんな知っている、はずなのに、その上で「数々の冗談、ありがとう。いまいち笑えなかったけど。はは……。今日もそうだよ、ひどいよ、この冗談は……。(弔辞より引用)」と言わなくてはならない、裏を返して言うなら、絶対にその秘密を語ったりなんかしない。というこの事実から話を始めていきたい。
□生きていない者をそう取り扱う理由。
大切な人を失うと心にぽっかり穴が空く。その穴を多忙で埋めるため、また穴が埋まるにはどうしても時間が必要なので、その猶予期間を作るために人は弔う、つまり弔いは悲しみや憂いへの対処療法である、と言われる。
しかしながら他方、死者はどこかにはいる、という上記とは逆の、保存する、ための方法も同時に取られがちで、この両挟みを一挙に引き受けるのがいわゆる「魂」という超理論であるが、それどころか、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟では、聖人であるゾシマは腐らない(そして実際は腐る)みたいな、聖者は肉体すら腐らないみたいな発想まである。
話は逸れるが、私の家には最近、某宗教団体の勧誘が来ていて、その人と話し込んでいた時、その代表が近頃亡くなり、その葬儀の際、遺体の耳元でその宗教の呪文を唱えたら肌がみるみる白くなり、眉毛も黒黒した、とか言われたことがあった。興味本位で「先生って腐らないと思います?」と尋ねると、たぶん腐らないと思う、との答えが返ってきた。信じるか信じないかは別として、死生観というものにはこのように死者が生きているものと同じように「温存される」問題、つまり尊厳の問題がつきまとうようである。
ちなみに仏教には九相図という、人が死んでから腐りきるまでを悪趣味にもわざわざ絵画にしたものもあって、これは上記とは真逆の「どんな人でもどうせ腐って終わり」「誰かが死んだ? しゃーない。切り替えていけ」というハードコアなスタンスで、ともかく死生観には、絶対に腐らない、から、めっちゃ腐る、まであり、まあ一般的には、体は腐るけど、魂はどっかにあるんじゃない? くらいで折衷を取る。
いずれにしても死んだ者は、なにか手立てを打たない限り尊厳が完全に無効になってしまうし、死者が権威・権限をあらゆるレベルで行使できないゼロの存在であるとバレてしまっては困る者がいるということであり、それは言うまでもなく「生きている側の人間たち」、というわけだ。死人に口なしとは言うけど、死んだ人間に対して悪くいう人はそうそういないし、実際そう出来ない。
死んだものの取り扱いは生きてるものの都合にぞんぶんに左右されているのであって、翻って考えると、生きているものは、自分のことを尊厳に満ちた、偉い、大切でかけがえのない存在だと思わずに生きていけないことも意味する。
仮に自分がいくら「終わってる」やつであったとしても、映画「ファイトクラブ」で、俺たちは終わっている故に誰よりも強い、のロジックを立てるように、みじめに謝ってばかりの人間はいつしか謝ることにマゾ的な享楽を憶えるように、わたしたちは恥ずべき自らなど絶対に、なんなら原理的に認めることが出来ないのだ。
誰しもが自分の恥、悪、みじめさ、汚らしさを、心のディレクトリ奥深くにある「秘密」のフォルダに隠している。しかも、パスワードを掛けて。
〜これより先、「ゼンイとギゼン〜」の軽いネタバレを含みます〜
□秘密(厄介な段落)。
「ゼンイとギゼンの間で呼吸する世界。。」は、ざっくりカテゴリー分けするなら討論劇である。「善かれと思って」を巡るさまざまな立場、視点から討論が繰り広げられ、最終的に葬儀に登場人物が結集し、いよいよ収集が付かなくなる、という筋だ。
この話ほど極端ではないにせよ、こんな感じのことはよくよく巷間見られるシチュエーションであって、本作はそのデフォルメであるのだけど、なんにせよ、この討論というやつがとかく厄介で、結局、討論ってのはどの程度意味あんの? みたいな問いも本作では含んでいる形になる。
多様なやり方で「粋がった」人物たちが討論を繰り広げるとき、人物たちは意見をぶつけあうために話しているつもりではあるのだが、同時に「私偉い」が崩れないように細心の注意も払わねばならず、一向にことの核心に迫れない。発言の根拠である個人的な欲求を隠したまま相手に攻撃を加え、反論する側も相手のその欲求に触れてしまうと自分も詰まされてしまうから討論は混迷を極めるしかなく、ついぞ「アイコさん」の心の秘密に事故的に接触してしまった瞬間、討論全体が停止する。
さらに後のシーンで「本心言うのってきまずいな」と「別所くん」は言うけど、その話された本心自体も、またどこか決定性に欠ける無意味さがかおる。
つまり、わたしにも秘密がありあなたにも秘密があって、その秘密を突けばきっとなにかが変わるはずだが、秘密の正体は表面上見えているものをはるかに超えた汚くみじめでエロティックなもので、しかもその秘密こそが意見、人格の本体なので、わたしたちは仕方なく、表層としかいいようのない位相でつるつるするのである。それが本当のぶつかり合いのように見えたとしても。
わたしたちは言わぬが華的な、「法」とは逆の、ややこしい言い方をすれば「否定神学的な法」をシェアしていて、それが覆い隠す巨大な秘密、とでも言うものに触れさせてもらうことはまず出来ない。わたしたちが人間である以上、少なくとも公的な空間で、公的な言語を使う限りにおいては、だ。
だいたいこの文章も、この秘密に関して、何も言えていないようなものだし、全くの無である。本当の意味でこの秘密の核心に到達した文章が仮に書けたとしても、公的なコミュニケーション空間へ公共言語で投げかけている限り、いやまたまた〜、みたいな形で雲散霧消して終わり、すなわち一人の言論なんて無力だし、そもそもここが覆ってしまったら人が人として生きることの根本も覆る気がするので、この不可能性は原理問題なのであろう。
但し、この魅惑的な秘密へのささやかな侵入方法はないわけではない、ということがここからの話である。その侵入方法とは「セリフ」である。
□セリフとはなにか。
セリフの前に、公的な言語で最も一般的なものについて整理すると、それはビジネスメールであって、ビジネスメール空間では、可能な限り言いたいことはストレートに伝えましょう、という原則がある。
例えば、他社からの協力が欲しい時、これは御社にメリットがあることだから、と言いたいこととズレた内容で伝えてはダメで、たしかに日本のメール文体はごちゃごちゃしているけど、それは単にある共有しているルールの中でそうなのであって、基本的には伝えたいことのコアをはっきりさせ、ズレを矯正しながら書くように教育される。公的言語では、コアと発言内容のズレがあっては困るのだ。
では、セリフ(の機能)とはなにかというと、まさにこの逆で、コアと発言内容が確実にズレている状態のことを指す。
ダメなセリフの代表として「説明ゼリフ」と呼ばれるものがあるが、これはコアと発言が「完全に一致している」から「セリフ」ではないのである。セリフそのものに秘密がないのだ。あるいは語と語の関係性の中でズレを生じさせるものもあるがそれはモノローグ、すなわちセリフというよりは詩(の機能)に該当する。
例として解りやすいのは、古いけど「ツンデレ」であろう。ダイアローグにおいて、愛していることを伝えるために「愛している」とか言わせてる場合ではない。愛を伝えるためのあれやこれやをまるで人生のように考えるのではなく、ひとこと「嫌い」と言わせなければならないのがセリフである。
また「JR SKI SKI」のコピーで「ぜんぶ、雪のせいだ。」だけが流行したのも、「ぜんぶ、雪のせい」と言うけど、これ明らかにほぼ雪のせいではないからであって(雪は多少影響してる程度)、今年の「雪よ、推してくれ」がこれを超えるバズを全く見せていないのは言うまでもなく、雪という明確な対象に向けて推してくださいって頼んでるだけだからで(そもそもどういう意味なのかさっぱり解らない、まであるわけだがそれは置いといて)、いい感じのワードをコネてもしょうがなく、ズレをいかに持たせるか、という方法でないと、すなわち「ぶっ刺せない」のである。
つまり、セリフ(が機能する)という状態はすなわち「ぶっ刺す」ことであり、秘密への侵入経路を貫通させることである。セリフとは、そこで語られていることによって、なにか別の気配がかおる言葉のことだ。但し、果たしてそれが本当の秘密なのかは、実は問えないわけだが。
と、ここでやや唐突だが、この文章を締めていこうと思う。どう考えても「ロミオとジュリエット」とかで例を出すべきだったが、いかんせん公演までの日程も迫っている。
読み終わったらもう一度、この文章の冒頭だけ読み返してもらえればと思う。死者への言葉はなぜ悲しく、なぜ救いなのか。3000字のつもりが2000字近くオーバーしているのでその追記も省きたい。
なお「ゼンイとギゼン〜」の動画編集はこの文章を書いている段階では既に終わっているのだが、諸事情により配信が始まっていない。配信された暁には、たぶんこの下あたりに配信のリンクが貼られているはずである。あるいは最上部かも。
□口
エンニュイは佐藤佐吉演劇祭に「口(しかく)」で参加することとなった。
祭のキャッチコピーが「突破口」だったので「口」という過去作を引っ張り出してきたはいいものの、もともと本作はコロナ禍に出来たものでクチや囲われてるイメージで構成していったのだが、今それをそのまま使うわけにもな、ということで言葉のあり方や音や形を手掛かりにこつこつリメイクしている最中である。
言葉はときにその言葉そのものをわたしたちの裏を掻いて超えてくる。言葉は尽くされれば尽くされるほど人を縛り、それを超えた時には救いにもなる。問題は常に超え方だ。言葉が言葉を超えるには全く意外な方法を用いるしかない。つまり創作という、たいへん厄介な方法でしか叶わない。わたしたちの巨大な秘密へはそうしてしか行けない。
青木省二
青木さん寄稿の過去の記事↓
公演情報
佐藤佐吉演劇祭2024 参加作品
エンニュイ『口』
■日程
2024年3月5日(火)〜10日(日)
■会場
王子スタジオ1
住所:東京都北区王子2-30-5
アクセス:
東京メトロ南北線「王子」駅 4番出口より徒歩6分
JR京浜東北線「王子」駅 北口より徒歩8分
東京さくらトラム(都電荒川線)「王子駅前」停留場より徒歩9分
都営バス他「王子三丁目」「王子二丁目」各停留所より徒歩3分
■脚本・演出
長谷川優貴(クレオパトラ/エンニュイ)
■出演
市川フー
zzzpeaker
二田絢乃
高畑陸
(以上エンニュイ)
浦田かもめ
中村理
■スタッフ
ドラマトゥルク:青木省二(エンニュイ)
映像撮影:青木省二 高畑陸
フライヤーデザイン:長谷川優貴
フライヤーイラスト:zzzpeaker
制作補佐:渡邉結衣(studio hiari)
協力:王子小劇場
■タイムスケジュール
5(火)19:00
6(水)19:00
7(木)19:00
8(金)19:00
9(土)13:00 / 18:00
10(日)13:00 / 17:00
※開場は開演の30分前
※上演時間は100分を予定
※3/9(土)の13:00公演には託児サービスがあります。要予約。
イベント託児・マザーズ(0120-788-222)
0才・1才2,100円 2才以上1,050円
■料金
当日 3500円
事前予約 3300円
U25 2800円
U15 500円
■予約フォーム
長谷川優貴コメント
今回のタイトルは、『口』と書いて「しかく」と読みます。エンニュイ第2回本公演『 』がベースになっています。『 』は公演名が無題で観劇した観客がそれぞれのイメージでタイトルをつけていいというもので言葉と文字と会話の話でした。その『 』をくっつけて口にしました。四角い枠の中でクチを動かす。口が連なって器になる。そして世界は回る。そんな公演。ラベル付けできないように雑多な感じに作りました。出演者の経歴も様々です。〇〇っぽいとか、〇〇系とか一言で片付けずに観ていただけたら嬉しいです。エンニュイは、僕のイメージする『演劇』でありながら僕のイメージする『お笑い』でもあり、何でもないものです。出演者の表現力と観客の想像力の隙間にこの公演はあります。虫かごの中を見るような、地球を俯瞰で見るようなあなたの想像力の向こうに無責任に偶発的に現れます。言葉に責任を持たなければいけない昨今ですが、適当に楽しくやるので、適当に楽しんでくれたら幸いです。このコメント自体がもう作品へのイメージを縛り出しているのかもしれませんが……。
あらすじ
「あの病気」がはやっているらしい。
あるオフィスでのお話。出来事。
真面目な山口さんが職場に来なくなった。
佐藤佐吉演劇祭とは
佐藤佐吉演劇祭は、若手の劇団を中心に、実行委員の推薦により参加団体を招聘して開催している演劇祭です。メイン会場である王子小劇場の親会社・佐藤電機の創業者、佐藤佐吉の名を冠して、東京都北区で2004年以来、開催している。
【エンニュイとは?】
長谷川優貴(クレオパトラ)主宰の演劇組合/演劇をする為に集まれる場所 。
名付け親は又吉直樹(ピース) 「『アンニュイ』と『エンジョイ』を足した造語であり、 物憂げな状態も含めて楽しむようなニュアンス」
2022年11月に新メンバーを加えて、組合として再スタート
メンバーの経歴は様々。
青木省二 市川フー zzzpeaker 高畑陸 土肥遼馬 二田絢乃 長谷川優貴
過去の公演台本のデータ販売やグッズ販売してます!
エンニュイperformance 『きく』公演台本データ | エンニュイBASE
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