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平井寛人さんの『きく』稽古場レポート

平井寛人さんの稽古場レポート


※下の記事は、今回制作協力をしていただいている平井寛人さんが寄稿してくれました。

 5月12日(日)、天気、晴れ。東京都某所。「組合/場所」を自称(劇団HPより)し、小劇場という種種雑多な業界においても独特なスタンスを示し続けている、エンニュイの稽古場にお邪魔した。

 稽古が始まるまでの時間、劇団員の高畑さんと広報企画に関する雑談をしていた。
 俳優の皆さんが稽古場にあるポスターに集まり始めた。「何か始まりました?」と尋ねる。高畑さんは「始まりました」と言って席を立った。稽古開始の時間になっていた。号令もなく、声を掛け合うでもなく、稽古が始まった。
 
 私もまま他所の稽古場にお伺いする機会がある方だと思うが、エンニュイの作品、創作は独自性が特に強い。この”改まってなさ”は確かな強みだ。日常ひいてはリアルな状態と途切れさせない身体/精神で、魅力的な人間性を維持して劇中に溶け込んでいる。
 その身体/精神に共感、同意していた観る者は、風向きだけが変わったようなリアルへの当事者意識を保ったまま、同居する劇空間に連れられて溶け込んでいく。
 そこでは、そのキャラクターをいわば誇張する「”っぽさ”の”ガチ”」ではなく、突き詰めて大事にされた「”ガチ”」が体現されているように感じられる。そこで冷えない信頼関係が築かれ、観る者は安心して身を任せ、「きく」の主題に耳を傾けることができる。

 この「”ガチ”」について、俳優は多視点を体験しながら、遊ぶ人=ホモ・ルーデンスを語る物さながらの振る舞いを見せる。人間の文化が具象化、実践化されていくにあたり、先行して「無いものを有るものとして置き換えてみる」遊びによって、発展がなされてきた。劇中で、観る者は最初に提示された主題が、そうした中で発展されていくのを目撃する。人間がリアルを見つめるにあたり、遊びが先行する人間性に着目し、暖簾押ししたのがエンニュイの創作であるように、ひとつ私は捉えることができている。
 また、詩を扱う精神分析家 ロナルド・D・レインの提唱する遊びもここでは一面的に実践されているように思う。連想する。氏の著作『好き? 好き? 大好き?』は、氏の論考に則り、全く戯曲の様相をして記されている。読み手と作中人物の遊びにより、人間の真相がひとつ明らかになる。
 『彼らはゲームをして遊んでいる。彼らはゲームをして遊んではいないふりをして遊んでいる。彼らが遊んでいるところを私が見物しているのを彼らに見せようものなら、私はルール違反をしていることになり、そして彼らは私を罰するだろう。私がゲームを見物しているのを見ないでいるのが、彼らのゲームなのであって、私は彼らの仲間に入って遊ばなくてはならない』(「結ぼれ」より)
 遊びへの論考にあたり、氏はこのように記す。エンニュイの稽古場では”ゲーム”というワードが、少なくはなく頻出する。私はこのこともあって、ロナルド・D・レインがひとつ明るい真相とした人間のアプローチを、全くキレイにエンニュイにも感じていくことになる。
 それは”ピュア”であることを維持しながら、”ガチ”であるための作法を指しているのかもしれない。

 話を稽古場に戻す。
 主題を巡って、縦横無尽にイマジネーションを伴なう肉体で遊んで、「きく」の俳優≒劇中人物がチャンネルを切り替えていく。
 ”チャンネル”とは何か。一つのジャンルに留まらない、メディア的な豊かさを持って、各コンテンツが展開されていく。

 例えば社会的な祝事、出来事があった時、祝事を扱おうと否であろうと、メディアは祝事を軸に考えられるようになる。
 祝事に代わって、エンニュイは劇中で「きく」にまつわる主題を起こすという出来事を持ち込む。
 シーンが孕む各コンテンツは、そうした状況で「きく」を軸に、観る者に浸透していく。

 シャッフルで再生させた楽曲の連なりに、たまたま一連したテーマやドラマを感じてしまうように、切り替わるチャンネルが全く別種のものではなく、連なったテーマとドラマを持っている。
 コンテンツが扱うのはときにゲーム、記憶のフラッシュバック等々。
 演出による俳優の後天的な一律ではなく、関わる人々の先天的な能を尊重し、それらがあたかも一連したテーマやドラマの最適な存在であるように見える。
 そこに対するエンニュイの戯曲的構成、演出は、劇的=ドラマ的である。
 ここで、チャンネルの”コンテンツとしての強さ”にも手を抜かないのが、エンニュイを特筆すべき劇団たらしめている点だと私は主張できる。
 ロナルド・D・レインの唱える遊びの論考よろしく、俳優はヘラヘラとしない。強度も高い。

 実話を思わせる人物伝には、よくフロイドの夢的なもの、ピンクフロイドの音楽的な演出を私に思わせる。
 サイケ・デリックなイマジネーションも前提世界に内在し、それ自体の作品のジャンルとして、同種のもので「嫌われ松子の一生」をふと思う。そこでは”死”も連続的に連想される。観ていて辛いところもある人物伝では、ここではジャンルとして、よくコメディとして扱われる。
 多チャンネルな構成で人物伝の持つイマジネーションを暖簾押しする、この不思議な一環は、人にとってよく”コメディ”として理解を帰結させるわけだ。
 なので、「きく」も、一般的にはきっと”コメディ”であると言えるのだと感じる。観ていて、そう感じる。

 尊重し合ってムリのないこのコミュニティは、脚本・演出の長谷川さんが現れて完成する。
 仕事終り(稽古後にまた戻るらしい)の長谷川さんが、はたまたのっそりと現れ、稽古としてのモードが変わる。ここまでは役者同士でフリーなホモ・ルーデンスらしさが発揮され、発見が繰り返されてきた。
 長谷川さんの到着によって、遊びは活性化され、更なるチャンネル・コンテンツ研究が進むことになる。

 稽古ではこのコンテンツが繰り返される。これは収録前の準備、ロケハンを私に思い出させた。
 この場において、長谷川さんの存在で何が大きく変わるかというと、純粋な美的感覚の確保である。舞台作品はその時間、特に目に映る空間すべてを作品としてスロウする。長谷川さんの目と口は、そこでのコンテンツの機能性を遊びきろうとする態度だ。
 全く信頼関係により、空間を劇的に輝かせる保証が、長谷川さん主導でなされていく。本番を見越して。

 冒頭のシーンのプレイにおいて、長谷川さんから「開いた話し方」「閉じた話し方」というツールが俳優に渡される。台詞を発しながら動く俳優の位置によって、声量が変わるなど、与えられたツールが自覚的に使われていることがここで明らかになる。前提とされ、作品が冒頭を担わせる、このワンチャンネルが一層鮮明なものになる。

 イメージをフィルターで重ね掛けしていくやり方は、全体の構成についても、個々のコンテンツに対しても当てはまる。イメージの鮮明化。これは俳優にとっても、来る観るものについてもまず幸いなことだ。
 明らかになるイメージで、舞台上の構図が整理される。

 ここでは、人物の持つそれぞれの時間を、私たち自身の向き方をもって普段は固定な観点を持って聞くが、イメージが”分かる”ことで、狙われたかのようにその状態がかき混ぜられていくような感覚になる。
 それは目前で空間的にかき混ぜられているさまと同様で、その、断片的にときに”きく”ことが、作品への入り口部分で、体感的に分かる。これが出来る、狙われている、意図されている、ということを申したい。この作品を、観る者は、純粋に拾い上げる態度で、安心して観て良いと訴えたいのだ。

 それから、長谷川さんが持ち込んだ”ゲーム”が稽古の終盤に現れる。これは劇中にそのまま組み込むというより、作品の助けになりそうな種を持ったマトを、みんなで練りまわすという時間だ。
 直感的にもっとフィットする形になるよう、参加者全員が提案者を兼任し、ゲームがなされる。ときに繰り返されて、確かに「きく」とゲームが隣接されていく。

 シリアスなドラマのチャンネルもあれば、ゲーム的、バラエティ的な瞬間もある。
 「哀しい」としたプレイリストに入った曲がてんでバラバラなことを本来は描いていても、それが塵芥に似ない、人間のリアルに順ずるものであれば、私たちはそれを通して哀しさを受け取ることができる。
 その曲順や、アレンジ、ひとつの腕の振り方のルールなどが稽古で練られながらも、最後には「きく」のフォーマットの中にある。私たちはそれを楽しんで見渡すばかり。

 この日は、「喋っている人物がいる。目が合うと、合った人物は会釈を打たないといけないとする」という仮設前提が持ち込まれ、「会釈を打つ際のワードを各自ひとつに固める」「移動に指示が出る」などを経て、確かな手応えが得られたように思える。

 体調や、最近の調子。そうした背景を人は持って舞台を創る。
 稽古が終わると、稽古の時とすんで変わらないような態度にみんな見えるが、そうした人間らしさがよりはっきりみんなに見えるから不思議だ。
 輪になって、フィードバックが起こる。それぞれ、地下室の研究者たちのように、多大に持ち帰るものがあるようだった。

 そうして稽古が終わり、夜が深まっていく。
 エンニュイの創作の特性は、現時点での私の解釈にとって、振り切って”チャンネルアート”と化している部分だ。そんな名称のものがあるかとは知らないが。
 チャンネルを内包する、社会的、劇中的な主題は今回「きく」。「きく」ということそのもののお話。
 優れたクリエイターたちによるこの作品を、超優良企業のつくるジェットコースターのように、身を任せて安心して座してもらえるとよいと思う。少なくとも、本作はそうあろうと、本レポートに保証されたし。
 
平井寛人
 



エンニュイperformance 『きく』
2024/6/18(火)~23(日)
会場:アトリエ春風舎
https://stage.corich.jp/stage_main/294473

・前売: 3,500円(当日+300円)
・応援チケット(特典付): 5,000円
――以上、各回の1日前までの事前予約のみ
・U25: 2,800円
・U15:無料
・リピート割:2,000円
【ご予約】

【日程・開演時間】
2024年
6/18(火)19:30
6/19(水)19:30
6/20(木)19:30
6/21(金)19:30
6/22(土)13:00 / 18:00
6/23(日)13:00 / 17:00
全8ステージ
上演時間: 80分程度
※受付開始・開場は開演の30分前
※全席自由席
※支払いは全て当日現金にて受付。事前支払いの受付はありません

【会場】
アトリエ春風舎
〒173-0036 東京都板橋区向原2-22-17 すぺいすしょう向原B1
東京メトロ有楽町線・副都心線/西武有楽町線「小竹向原駅」下車 4番出口より徒歩4分
アクセス|アトリエ春風舎

【脚本・演出】
長谷川優貴

【出演】
市川フー
zzzpeaker
二田絢乃
以上エンニュイ
浦田かもめ
オツハタ
小林駿

【スタッフ】
出演/映像:高畑陸(エンニュイ)
ドラマトゥルク:青木省二(エンニュイ)
動き相談役:木皮成
drawing:zzzpeaker(エンニュイ)
ビジュアルデザイン/写真:長谷川健太郎
制作/宣伝/広報/照明:studio hiari
制作協力:黒澤たける
助成:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京[東京ライブ・ステージ応援助成]
スポンサード:CoRich舞台芸術まつり!
主催:エンニュイ

【エンニュイとは?】
長谷川優貴(クレオパトラ )主宰の演劇組合/演劇をする為に集まれる場所 。
名付け親は又吉直樹(ピース) 「『アンニュイ』と『エンジョイ』を足した造語であり、 物憂げな状態も含めて楽しむようなニュアンス」
2022年11月に新メンバーを加えて、組合として再スタート


「文字通り、誰かの話を「きく」ことを主題とする作品です。他者が話していること、そのイメージを聞き手が完璧に共有することはできない
人間は、自己が体験したことから想像することしかできない。誰かの話を聞いている最中、私たちの思考は徐々にズレていく。言葉から連想して脱線したり、集中力が切れて別のことを考えたりするそんな、「きく」感覚をそのまま体験するような上演にしました。
僕は母親が未婚の母で母子家庭でした。親戚もいなくて唯一の家族だった母が数年前に他界しました。その時に作った作品です。亡くなったばかりの時に心配してくれた方々と話をした時にズレを感じて、話を聴く時は経験などによって想像や処理のされ方が違うのだと体感しました。別々である人間に共感を期待してはいけない。共感よりも大切なものがあるということと、他人への想像力の大切さを伝えたいです」

あらすじ
「母親が癌になった」
一人の男の語りから話は始まる。
最近、言葉が溢れていて聞き取れない感覚に陥る。
「きく」ことによってその話を「背負う」。
聞いた話の足りない情報を想像で埋める。
「きく」ことの大部分は想像。
そんな「きく」ことを体験できる公演。


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