『##NAME##』たちの物語と『46億年LOVE』という救済
はじめに
このnoteは169回芥川賞候補にノミネートされた児玉雨子先生の『##NAME##』と彼女が作詞を手がけたアンジュルム『46億年LOVE』に深いつながりがあるのではないかという仮説に基づいて記してみよう、と思ったものです。なお、『##NAME##』および『誰にも奪われたくない』及び『凸撃』のネタバレをうっすら含みます。
『46億年LOVE』という楽曲
2018年に発表され今やアンジュルムのライブでは必須と言っていいこの曲。
たったの3分46秒という短さで、また楽曲の楽しさ、ノリの良さから来る幸福感のためライブでは「毎回秒で終わる」などと言われています。
そんな明るく楽しい『46億年LOVE』ですが、同時に「アンジュルムで一番泣ける曲」とよく言われています。それは何故か。
もちろん「今のこのメンバーで聴ける『46億年LOVE』は永遠ではない」であるとか「これまでこの曲を歌ってきた今はいないメンバーの面影」などもあると思いますが、何よりもその理由は『##NAME##』の作者である児玉雨子先生にしか書けない、そしてこの時の和田彩花さんと彼女が率いるアンジュルムだからこそ書かれた歌詞。なおこの歌詞は「アンジュの「オラオラ!」という雰囲気にあえて乗らないように」と書かれた詞という事で、ある種この後、「オラオラ系一辺倒ではない」アンジュルムのBIG LOVEというテーマを決定付けた作品と言えると思います。出典はこちら
もう一曲の大定番曲、『愛すべきべきHuman Life』もこの曲無くしては存在しなかったと言っても過言ではないのではと思います。「なるべく大きな LOVE」もここから来てますし。
『46億年LOVE』と『##NAME##』たちの物語
「歌謡曲の定番の歌詞のようなセリフに対して「何度目?」のような鋭いツッコミをする、かつ自分から「好き」と言えるような強気な女性」でも「接触を懇願するのは恥ずかしい」という、先述のインタビュー記事の中にある「オラオラ!」一辺倒ではない主人公を描いていると感じられます。
「白黒淀んだこのグレーなシティ」は『##NAME##』で言及されるところの「せつなが芸能活動のために乗換検索を一つずつ覚えていった場所を包括した『東京』」のことなのかもしれません。
また、「グレーなシティ」のグレーは「白」と「黒」を混ぜた色。尾沢さんに(黒い)「闇」と片付けられてしまったけどストロボの(白い)「光」に溢れていたせつなと美砂乃の世界とも通じていると思えます。
そして、のちの活動で和田彩花さんが歌う『ホットラテ』の「甘いミルクの白」と「苦いコーヒーの黒」がないまぜになった「対立軸の間の世界」とも言えるかもしれません。
(ホットラテの歌詞解説については午前3時の初回生産限定盤SPさんの noteにも詳しく書かれています)
「駅前ですれ違った何人か知れない人々」の中にせつなや美砂乃、それにもしかしたらレイカや宏通など以前の作品の主人公たちもいたかもしれません。
「白」も「黒」も「光」も「闇」も「正しさ」も「まちがい」も「女」も「男」も混然としたグレーなシティですれ違ったそれぞれに痛みを抱えているかもしれない人々、そんな人々のことを思ってか「優しい愛の時代」が来ることを願います。
結局はラブでしょ
続く「I say ノってこう〜」以降のパートは唐突な感じがありますが「この曲の主人公はアンジュルムという概念そのもの」という捉え方をしてもいいのかもしれません。作詞された当時はもしかしたら違ったかもしれませんがこの曲をキラーチューンとして抱えたアンジュルムが「そう」なっていった、ということは言えると思います。
「このアンジュルムの世界でノって、踊って、「愛の時代」は絵空事ではないと感じて欲しい」と。
それが「結局はラブ」であり「大きなラブ」であると。
また、この「結局はラブでしょ」というフレーズですが、ここで言う「ラブ」は和田彩花さんがのちの活動で作詞した『それでも愛を信じるのは』の「愛」と同一のもののように思えます。
(3:20〜)
(なんとこの曲アルバムに入ってないどころか全編をYouTubeで聞く事さえ出来ないということに今気づきました、ライブでもしばしば披露される曲なのに…)
一応弊書き起こしを置いておきます
わかんなくても当然ダイバーシティ、だから伝えなければならない
『誰にも奪われたくない』で公園で林に責められたレイカが言いたかった「出来るだけ鋭くて重い言葉」はこれなのかもしれません。
「死に絶えていくものと違う選択が出来続けたとして、行き着く先はどこなの?」
そう受け止めるとその後の真夜中って無性にさみしくて〜」の響きも違って聞こえます。
例えば私などは視覚に障害がありますが、たとえ全く同じ障害を同じ進行度合いで持っている人が居たとして、その人と私は当然違う環境で育った違う特性を持った「違う同士」です。同じ尺度で「お前とあの人は同じ障害なのに」と言われる筋合いはなく、「私の痛みは私だけのもの」です。
『##NAME##』のせつなも、母に「お母さんが若い頃は〜」という話を延々されるシーンがあり、また、せつな自身が「自分よりも美砂乃ちゃんの方が大変なんだ」と言ってるシーンもありますがせつなの痛みはせつなだけのものです。「わかんなくても当然ダイバーシティ」は「わかりあえなくてもいい」ではなく、「他人に自分の痛みはわかんなくても当然、だから傷ついたら「傷ついたよ」と伝えられたら…」なのです。
「傷ついたら「傷ついたよ」と伝えられ」る世界、それには何が必要か。
そこに来てこの歌詞です。「愛の時代を作る、それしかないよ実際問題」。
そう、「まばゆい愛の時代」は「何でも許されるやさしい世界」などではなく、いつも「自分だって誰かを傷つけるかもしれない、その時「傷ついたよ」と言われたらそれを愛を持って受け止める」という“覚悟”を必要とする時代なのです。
せつなも、美砂乃も、レイカも、「夢に見てた自分」にはきっとなれてはいなかったと思います。それでも「真っ当に暮らしていく」彼女たちに対する賛美がこのフレーズなのでしょう。
また、今は当然のように「アンジュルム=BIG LOVE」とされていますが改名してすぐの頃くらいは『出過ぎた杭は打たれない』に代表される、先述のインタビュー記事にあるような「オラオラ」系の楽曲がメインで、活動の中で不本意な形でメンバーを送り出すことなどを経験し、「YESから入る精神」や「自分を大事にする、そして自分を大事に出来ることを尊重する」という精神を得るように変化して行ったのではないかと思います。
そしてそのアンジュルムを変化を感じ取り、歌詞にしたため、灯台の光のように進むべき道を指し示しているのがこの曲なのではないかと思います。
一番と大体同じ歌詞ですが、「結局はラブでしょ」の重みが増していると思います。
現状、世界に大きな影響を与えるような戦争が実際に起きているこの世界ではありますが、「争い」という言葉を日常レベルに落としてもやはりこのフレーズの意味は大きいと思います。いや、むしろその方が大きいかもしれない。
「自分が我慢すればこの争いはおさまる」と考えて我慢してしまうことが日本人には多いと思います。しかし、そこで我慢をすることによって余計に良くないことになってしまうことだってままあります。「傷ついたら「傷ついたよ」と伝えられたら」はこことも地続きなのです。
そして「夢に見てた自分」にはなれなかった、でも耐えて真っ当に暮らしていく##NAME##たちへの賛美が続きます
「愛は地球を救う」という言葉、結構(24時○テレビのあり方に対する批判も相まって)「偽善」とか「薄っぺらい」みたいな印象を与えますが、でも実際地球を取り巻く諸問題を解決出来るものなんて結局はラブでしかないんだと思います。
愛は地球を救うし、きっと##NAME##達も救ってくれる。
そんな3分46秒の祈りが『46億年 LOVE』なのだろう、と。
『##NAME##』は『46億年LOVE』が発表される一年前、わ「2017年8月」で終幕します。
願わくばゆきになったせつなが、アンジュルムに救済されていることを。