『さらさら流る』と『ナイルパーチの女子会』〜アンジュルムヲタク的柚木麻子作品読書感想文
このnoteはハロプロ夏の自由研究2023参加記事です
自由研究って普通理科ですが国語の読書感想文を提出します。自由なので。
なお、私は視覚障害者で、「ボイスオブデイジー」というアプリを使って視覚障害者用に「音訳」された図書を「聞いて」います。そのため、登場人物の名前等の固有名詞などの漢字表記は検索してで確認しきれない範囲についてはカタカナ等で記載することがありますのであらかじめご了承ください。
なお、各作品のネタバレを含みます
『さらさら流る』と『ナイルパーチの女子会』、そして『46億年LOVE』
『さらさら流る』と『ナイルパーチの女子会』を読み(というか聴き)、「この二作品は対を成す作品なのでは?」と感じました。
主人公が作者の出身である世田谷で育ち、アラサーで実家暮らしでどちらの家庭もまず他人から見て「不幸」と断定されるような家庭ではない。ただ作者自身の出身地で育った主人公が描かれるというのはよくあることではありますが。
そしてこの二作品とアンジュルムの楽曲『46億年LOVE』の主題には大きく共通するところがあるのではないか。(以前『##NAME##』と『46億年LOVE』を主題にした記事を書きましたがそれほどにこの曲はアンジュルムの精神性の根幹に流れるものであるので…)
『さらさら流る』
井出家とアンジュルム
『さらさら流る』の井出家には「アンジュルムという概念を「家族」に落とし込むとこうなるのだろう」という印象を受けました。
井出家のの家訓に「沈黙は金ではなく、無」というものがあります。一方アンジュルムは「いつもうるさい」と言われています。(コンサートやイベントで楽屋が近い席に座った時に楽屋で大騒ぎしている声が聞こえるほど。また、コロナ禍前まで行われていたいわゆるリリイベ、CD即売イベントの全体握手会ではファンと喋りながらも隣や近くのメンバーと大騒ぎしているのが良く見受けられる光景でした。)
また、「分かったふりは出来ない(だからわからないことには「わからない」と言う)」という家訓もアンジュルム歴代リーダーに共通する「構え」と言っていいと思われます。
また、食に対する自由さというのもアンジュルムと共通するポイントです。
良く「ハロプロの上下関係」エピソードで出て来る話ですが、他のハロプログループに置いてはお弁当を選ぶ順番は先輩から、というのがありますがアンジュルムは早い者勝ち。一方井出家には「各自が自分の食べたいものを作り、作りたくない日には他の人が作った料理をもらっていい、というルールがあります。これはアンジュルムが一番大事にしていると言ってもいい「個の尊重」を実現させているように思えます(『愛すべきべきHuman Life』における「自分ブンブン大事にしたい」はそれを一言で言っている歌詞にも思えます。)
井出菫とアンジュルム
菫は「身近な人間に不適切な写真を撮らせてしまい、インターネットに流出させられてしまう」と言う失敗をします。しかし、親友や家族の手を借りて「自分の心を守り」、乗り越えていきます。
アンジュルムにおいても、今まで「望まない形でメンバーを失うこと」だったり「短期間で連続しての卒業」など、いくつもの困難であったり「もうダメか」と思う出来事がありました。しかしその度に互いの心を大事にして乗り越えていきました。菫とアンジュルムには通じる「反脆弱性」があると言えるかもしれません。
また、この作品を初見した時、序盤も序盤で「何故川に蓋などして暗渠にしてしまうのか。蓋などせずにお日様の元であるがままの姿で流していけば、どんなに汚い川でも自然の持つ自浄能力で綺麗な川になるのではないか」というセリフから強くアンジュルムを感じました。
これは『46億年LOVE』の2番のBメロからサビにかけてのフレーズに通じるものがあります。
あなたも私も違う存在なのだから何に傷つくのかはわからない。だから傷付いた時に「傷付いたよ」と伝えられる、そんな愛の時代を作るしかない。
「愛の時代」を作るのに必要なのは汚いものに蓋をして目につかなくすることではありません。
「自分が誰かを傷つけた時に「傷付いたよ」と言われる事を覚悟に決めて、相手の傷に目を向ける事」です。菫はそんな『46億年LOVE』に流れる精神を持っているのではないか、と思いました。
『ナイルパーチの女子会』
栄利子と自他境界
翻って『ナイルパーチの女子会』。
主人公の栄利子はそんなに悪い人ではないとは思うのですが、どうにも「友達が出来ない」。
せっかく仲良くなれそうだった主婦ブロガーの翔子と些細なきっかけで避けられるようになってしまい、そこから「自分のことをわかってもらうために言葉を尽くそう」とします。
ここまでは良いと思うのですが、その方法があろうことか「大量にメールを送りつける事」。
確かに栄利子は過剰で異常で変で迷惑ですが、なんとなく気持ちは分からないでもないな、と思いながら最後まで読んでました。
箱根旅行で翔子がオススメしてたドラマを「共感が出来ないからつまらない」と切って捨てた時、「ああ、この人は自他境界の線引きが出来ない人なのか」と気付きました。
栄利子は『46億年LOVE』に救われるべき
さて、また出てきます『46億年LOVE』
栄利子の最大の問題はこの歌詞に言う「分かんなくても当然ダイバーシティ」が分かっていなかったこと、だと思います。
「自分の親友なのだからこうでなくてはならない」みたいな自分の好みや理想を翔子に押し付けることはまさにこれを分かっていないがためにしてしまう事だと思います。たとえ自分が「くだらない」と思うドラマを親友が面白がって見ているとしても「自分とは別個の存在なのだから当たり前のことだ」なのだ、と栄利子が気付けていれば…と思います(この時点で「親友になってくれ」と脅迫しているので翔子との友情を取り戻すことはまず難しいと思いますが…)
栄利子はヲタクになれば幸せになれた、のかもしれない
ヲタクには色んな人がいます。
多少性格に難があったり癖があったりする人でもよほどに性根が腐ってるとか絶望的に愚かでもない限りは大抵受け入れられます(たまに相当な癖のある人のDMのスクショがTwitterのタイムラインに流れて来ることもありますが…)
栄利子から見ればヲタクは「良い年して若い女を追いかけてる異様なおっさんと同性を追いかけてる意味のわからない女達」に見えるとは思います。
しかし、アンジュルムの楽曲の歌詞の中には少なからず栄利子の言うに私たちを競争させようとする何か」に対するアンチテーゼが含まれているものもあります。栄利子がそこを糸口にアンジュルムに興味を持ち、色々なヲタクと出会い、自他境界の線引きを覚えていければ…なんて事を考えてしまいます。
また最終章で圭子が言う「かつての親友同士が街ですれ違った時、気分のいい立ち話が出来ればそれでいいのではないか」と言うセリフにもヲタク同士の関係ではよく見受けられる瞬間です。
例えば別のアイドルにハマって会わなくなったかつての知り合いとライブの開演前や終演後にほんの数分間話すことは本当にそれに近しいもののように思います。
また、アイドルとヲタクのライブ中の関係だって「それ」に近しいものなのでは、とも思います。
おわりに
もし柚木麻子先生のファンの方でこの二作の感想を探してここに辿り着き、最後まで読み終えていただいたならアンジュルムに是非興味を持って欲しいなと思います。