短編小説『キミトグライド』


記憶の中に刻まれた苦くも暖かい喪失のいたみへ

「これでよしっと…。」

一日休暇を取ってじぃじの墓参りを済ませた僕は、初夏の空を飛んでいくたんぽぽの綿毛を見上げた。そう、あの時もそうだった。記憶の針を遥か昔に巻き戻すと、その時の景色が鮮明に脳裏に浮かんできた。

じぃじは虹の彼方を超えて遠くへ行ってしまった。

あの後、駅に着いた僕はそのままタクシーで病院に連れて行かれ、訳も分からないままじぃじがベッドに座っている病室へと導かれた。じぃじは訪れた僕の不思議そうな顔を見て

「大丈夫じゃよ。」

となるべく普段通りの口調で答えた。その声が多少不安定なのにさえ気付けなかった幼い僕は

「ねえねえ、今年はどこに連れてってくれるの?新しい遊園地が出来たってばあちゃんから聞いたよ!」

と返したけど、じぃじは寂しそうな顔のまま何も返さず、ただ僕に微笑み返した。意味を理解出来なかった僕は、それを単なる「ノー」という無愛想な反応だと捉えて、頬を膨らませて不満そうにしていたが、ただ何かたった少しだけ、何かが起こってしまうのかもしれない不安を感じた。

その日は病院でしばらく見舞いをしてから病院を離れ、僕は実家でいつも通りばあちゃんの美味しいご飯を味わいながら、母に尋ねた。

「何でじぃじは病院にいたの?」

「大丈夫、明日には帰ってくるから。」

そう母は本質を避けるように、素っ気なく結論のみを伝えた。事実、翌日じぃじは家に戻ってきた。何だ、ただの軽い風邪か何かでも引いたのだろうかと、僕は一抹の不安を喉の奥に飲み込んだ。

ただ、せっかく田舎に遊びに来た僕をじぃじは新設の遊園地に連れて行ってくれる訳でもなく、家で静養しているという雰囲気だった。心做しか以前よりか細く、弱々しく感じる…べきだったのだろうが、僕は元来遊べるはずの時間を家で拘束されて不貞腐れていた。そんな僕にじぃじが声を掛けた。行きたい場所があるらしい、と。

「え!やっぱり連れてってくれるの?」

じぃじは力なく首を横に振って、力弱くも柔らかな表情で

「一緒に行こう。」

と一言だけ答えた。

「どこへ?」

「すぐに分かるから心配せんでええ。」

そうやって僕はじぃじの手を握りながら、そのまま歩いていった。普段の歓楽に溢れた場所とは掛け離れた、閑静な小さな丘までじぃじは僕を連れて歩いていった。まっすぐに坂を登っていくと、路傍に自生したたんぽぽの綿毛が風に飛ばされて、丘の上の方へとふっと浮かぶように飛ばされていった。

じぃじの真意を介することもなく、相変わらず軽く不平を呟きながら着いていっていた僕だが、丘の上まで上がったところで息を漏らした。そこには一面の花畑が広がっていた。チューリップやヒヤシンス、フリージアやアネモネ、ラナンキュラスなど、春の季節の花々がそれぞれ区画に分けられながら広がっていた。

僕たちはその花々の前を歩きながら、時々疲れたじぃじをベンチに座らせて少しずつ歩いて見て回った。じぃじも憂いを忘れたかのような普段の優しい顔に戻っていた。

最後の区画に差し掛かった時、僕はネームプレートに書いてある花の名前が読めず、じぃじに質問した。好奇心から尋ねただけで、淡い青に染まったその花に大きな意味があるとも感じていなかったのだが、じぃじは一瞬答えようとしてからやっぱり口を噤んだ。その瞬間だけ、とても切なそうな表情をしていた。その代わり

「ここに、来たかったんじゃよ。」

と一言だけ答えた。風に巻き上げられたたんぽぽの綿毛が迷い込んだ二人を包むかのように空高くへと舞い上がっていった。何故だかそれが意味ありげに感じられて、子供心にその瞬間の映像は脳に焼き付くように残された。

帰宅して数日経ってすぐじぃじはまた病院に戻った。僕は結局何をしに来たかも分からないまま田舎を離れ、そして六月の初旬頃にじぃじが亡くなったことを知らされた。

子供は人の命の重さを知らない。何せ自分の人生すら永遠に続くと信じ込んでいるくらいの年頃だ。ただ、火葬場で焼け焦げた灰になって、本当に形すら失ってしまったじぃじの姿を見た時、初めてその痛みをぎゅっと腹部を締め付けるように感じた。

やっぱりじぃじは二度と遊園地になんて連れてってくれなかった。でもそれは意味が違うじゃないか。最後まで僕はわがままに、それでもあの時、手を握っていた時のじぃじの手の温もりを覚えていた。

"白い綿毛は僕を追い越して 次の季節夢見てる
あの日ふっと吹き消した光は せめて覚えてくよ
春が過ぎていくよ"(夏川椎菜『キミトグライド』より)

そろそろ綿毛だったたんぽぽ達も土に根ざして咲き始めている頃なのだろう。いつの間にか季節は過ぎ去って、次の世代に向けて進んでいく。まるでそれまでの者たちを置いていくかのように。残された者たちに出来ることは、ただ覚えておく、忘れないでずっと胸の中にしまっておくことだけ、そう僕が学んだのは初めてのことだった。

あの時の淡い青を墓石の前の花瓶に添えて、僕は空を見上げた。あの時じぃじが最後の逃避行を試みていることに僕は気付いていなかった。きっと様々な嘘を付きながら最後まで平静を装って、意図を僕に直接伝えてくれることはなかった。それでも生きていたかったのだろうし、それが叶わなくとも、せめて忘れないでいて欲しかったのだろう。小学生には読み慣れない漢字のあの花の名前も大人になった僕には分かる。

"僕ら間違いだらけで進んだ ついた嘘は誰のため
叶うはずない素敵な願いは道に咲いていくよ"(夏川椎菜『キミトグライド』より再び)

深く深呼吸をして、墓石に一礼をしてから僕はじぃじの墓を離れた。虹の橋の向こうから言葉を交わすように、目の前を白い綿毛がすっと通り過ぎると共に、あの笑顔に似た勿忘草の柔らかく優しい香りが胸の中を満たした。(続編 短編小説『すーぱーだーりー』に続く)

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