短編小説『フワリ、コロリ、カラン、コロン』
目の前を小さな球体がフワリと風に靡いた。同時にその球体はコロリと転がり、カラン、コロンと心地良く耳に音を響かせた。じぃじの住む郷里を訪れる毎年夏、僕には縁側で鳴る風鈴の下で寝転びながら、その音に耳を欹てるのが好きだった。子供だった頃の僕は当然、玲瓏透徹の一語でその擬音を形容出来ることなど知らない。
子供時代、引っ込み思案で友達も多く出来ず、学校に行くのが辛いとまでは行かなくとも、そこで自分を晒け出せなかった僕にとって、夏休みの田舎での一時はまさに己を謳歌する時間だった。
ばあちゃんは家で美味しい料理を作るなど、遊びに来た僕にたらふくの家庭的な幸福を与えてくれた。ただ、曾祖母の介護もあったため、僕の面倒を基本的に当時の僕が"じぃじ"と呼んでいたじいちゃんが担当してくれていたのである。
じぃじは車を運転して僕を遊園地や飲食店街に連れて行ってくれたり、時には地方住まい故の大自然の中に誘ってくれた。次はメリーゴーランドに乗りたいとか、ジェットコースターは怖いから嫌だとか、当時の僕は好き放題言っていたし、海に連れてきてもらった時に砂浜で突然駆け出していなくなったりもしたけれど、じぃじは事が無事に済んだ時には常に柔らかい笑顔で僕を見つめてくれた。
そんな至れり尽くせりな夏休み、自分が王様になったと言うと大袈裟かもしれないが、自分の望みを周りの親族は出来る限り叶えられるように尽力してくれた。当時の僕はそのありがたさすら理解しないまま、ひたすらに夏の終わりを満喫していた。
そんな夏休みにも終わりは来る。そんな時の夏の風物詩と言えば線香花火なのかもしれないが、終わって欲しくない時間を刹那的と思いたくなかったのだろうか。離郷の前日には一日中縁側に転がって、悠久に鳴り響いていそうな風鈴の音を無心で聞いて過ごすのが僕の習慣だった。
12個の音階を無作為な順で並べるその音色を聞いていると、夏空の青い世界の中へ溶けていくような感覚があった。楽しかった夏の想い出と共に、空想が止め処なく広がっていく。そうしている内に実家を去る寂寥感は自然と薄れていき、夢の中にいるような気分に浸っていく。その間、風鈴の音はずっと朗々たる音相で空気を揺らし続けていた。
"フワリ、コロリ、カラン、コロン 大空の譜面にそっと
フワリ、コロリ、カラン、コロン ワクワク、ドキドキを描いて
フワリ、コロリ、カラン、コロン 忘れちゃいけない笑顔で
フワリ、コロリ、カラン、コロン 夢見る心は無限大でしょ!"(夏川椎菜『フワリ、コロリ、カラン、コロン』より)
少なくとも幼少の僕にはその風鈴の音がそう聞こえていた。僕にとって長い擬音で感覚的に捉えたその音こそ、夏の風物詩だった。また来年の夏に何をしようか、そんな夢想的な願いが音符になって弾ける。
そうやって毎年過ごしてきた夏は永遠に繰り返すかのように思えていた。田舎を離れる前日、布団から目を覚ますと「おっ、起きたかい…」とじぃじの声が聞こえた。その声に少し元気がなかったので
「どうしたの?」
たったそのひとつの問いに返事がなかなか返ってこない。眠たげな目を擦ると、じぃじの顔にいつもの優しい笑顔はなかった。その表情は複雑で、当時の僕には何ひとつ理解が出来なかった。今思えば、浮かんでいたのは懐旧と哀情の念が入り混じった顔付きとでも言えばいいのだろうか。ただひとつだけ分かったのは、別れを惜しんでいるのは僕の方ではなく、じぃじの方だったということだ。
でも最後までじぃじは答えをくれなかった。言われてみればじぃじは、ばあちゃんに連れられて何日か家を離れてから家に戻ってきていた。今日は遊びに行けないんだ、くらいの感情で、何かあったんだろうかと思える程、幼少の僕には想像力がなかった。
じぃじはいつも通り最寄りの駅まで運転してくれて、電車に乗ろうとする僕と両親を見送りに行ってくれた。だからこそ別れ際に何の違和感もなく僕は
「じぃじ、また来年の夏!」
と明るく声を発して電車に飛び乗った。その一瞬、じぃじの目が涙で潤んだかのように光ったのを見たような気はしたが、勘違いだろうと僕は座席へと向かった。夏休みを遊び切った気持ちで胸は弾んでいて、察するだけの冷静さも失っていたのだろう。
その来年の春、僕はもう一度じぃじの住む田舎に呼び出されることになる。僕はてっきりまた遊びに行けるのだと喜び勇んでいたのだが、駅に着くと普段の車の見送りはなかった。ばあちゃんがひとりで僕を駅のホームまで迎えに来ているのが見えた。怪訝そうにする僕に、ばあちゃんも両親も少し悲しそうに微笑んだ。
雨粒が地面を打つ。僕にはその音符すら明るいものに聞こえていたし、空に咲いて地上と天上を結んだ虹が何を運んでいくのか想像だにできなかった。じぃじと過ごす最後の春、僕にとって忘れることの出来ない逃避行の物語は始まりの一音を奏でた。(続編 短編小説『キミトグライド』に続く)