(参考)汎インド・ヨーロッパ"民族仮説"の形成について知ったような話(「神の双子」ディオスクロイの考察に関連し)
双神ディオスクロイとヘレネは一体何の神であったのか。
ギリシャ神話内をぐるりと遠回りしてきた「一万四千年前の神」双神ディオスクロイに関する話も目的地がようやく見つかりそうな様子ですが、その前に閑話が続きます。
今回は小難しい話をさも知ったようにするだけなので、あえて分けました。ほぼ学説の歴史の話ですし、何より思想くさく説教くさく、何様だと思いながら書き進め、投稿ぎりぎりまで飛ばしてしまおうか迷いましたが、その歴史を背負ってゲームで遊んでいる以上、解説だけはするべきと投稿しました。
そういった内容のため、「ディオスクロイの背景以外は必要ないです」という方は飛ばしてもらっても一向に構わないと思いますし、半端者ののため誤った部分があればご指摘お願いします。
ゲーム上は全く関係ありませんが、今回Fateで採用されたであろう、太古の「汎インドヨーロッパ"民族"の神話」に関する裏話的な話です。
『リグ・ヴェーダ』の「発見」
少しだけ歴史の話をしよう。
19世紀、マックス・ミュラー等によってインド初期の讃歌集である『リグ・ヴェーダ』(紀元前15〜10世紀頃?)の存在が広くヨーロッパに知れ渡ることとなった。
その際、ディオスクロイとよく似た神格として、アシュヴィン双神という神が知られるようになった。
アシュヴィン双神は先述の『リグ・ヴェーダ』に登場する双子の神であり、馬に乗る神であり、人と神とのペアの神として描かれていた。
彼らとディオスクロイとの共通点については下記が挙げられている。
①彼らは双子の神である。
②彼らは天空を司る神の息子とされている。
③馬にまつわる神である。
④片方が人間であり、片方が神とされる場合がある。
⑤人間の苦難の際に救いに来る神であり、戦闘の助けや海難救助も行う。
⑥人に近しいとされる神である。
⑦女神と関連づけられ、この女神を助けながら移動する。
さて、ディオスクロイとの共通点の多さに驚いた方も多いのではなかろうか。
そもそも、ミュラーらは当時の西洋の文化の中心であったキリスト教・ユダヤ教へのアンチテーゼとして、自然信仰によるヒンドゥー神話、ギリシャ神話の対比を行おうと考えたという。
その後、比較神話研究者たちはこの内容を更に発展させ、「ディオスクロイとアシュヴィン双神の間には共通となる起源があったのではないか?」と推測するようになった。加えて、欧州や近東の複数の地域からも「馬に乗る双子」としての性質を残した神話・民話上のキャラクターが複数発見されたため、共通の起源を持つ双子の神が最初にいて、それがインド・ヨーロッパの多くの地域に散逸していき、それぞれの神話に習合されていったのではないかと考えられるようになった。
これを19~20世紀の学者たちは「Divine twins」もしくは「Holy twins」、日本語で言えば「神の双子」「聖なる双子」と仮定して名付けた。
「汎インドヨーロッパ語族」から「汎インドヨーロッパ民族」仮説へ
だが元来、この発想は文化を比較するためのものではなかった。
当初19世紀にサンスクリット語を西洋に広めた言語学者らは、あくまで「言語学的な共通項として」サンスクリット語と欧米諸言語との類似点を指摘した。更にインド、ペルシャ、ヨーロッパ諸言語の間には共通の「言語」があり、これが広く世界に分化していったのではないだろうか、という「汎インドヨーロッパ祖語」仮説を打ち立てたのもあくまで言語的なもの(語族)としてであった。
初期には言語学的な試みであったこの「汎インドヨーロッパ祖語」仮説は、やがて先述のミュラーなどによって「言語的な移動」と実際の「文化や民族の移動」を混同視するようになり、(場合によっては政治的、民族的な感情を巻き込みながら)発展した。
これは現在でも続いており、理論を発展しながら多くの議論を起こしている。各分野から出された論文も、それぞれの学者の立場によって「言語学上の」仮説か、「民族・文化的な」仮説か、スタンスは異なる。
現在においても、「神の双子」や「汎インドヨーロッパ神話」が存在していたことを直接的に証明する考古学上の発掘や文献の発見はされていない。ただし少なくとも現在の比較人類学者らは、少なくともディオスクロイ=アシュヴィン双神間には何らかの原型があったと捉える向きが強いようである。(West 2007)
※考古学的発見に依らない推論モデルを作ることは特殊なことではない。例えば『金枝篇』のフレイザーやデュジメルらもであるし、他にもケルトの古代モデルを作ろうとしたオレヒリー等もおり、複数の研究者がこうした試みをしている。しかし、こうしたモデルの作成はあくまで仮説にとどまることを重々に留保するべきであろう。
『Fate/Grand Order』のディオスクロイのフレーバーテキストによると、
若々しい騎手、或いは馬そのものの姿を取る太古の双子神であり、戦争や航海などの危難に遭う人間の救い手だったと言われている。…双子神は「二柱の神」などと呼ばれていたが、それぞれ固有の名前を長い事持たず
と記載されている。この部分については少なくとも「神の双子」を想定していることは間違いないだろう。
なぜならば若々しい騎手、危急に遭う人間の救い手というのは、どちらもディオスクロイ・アシュヴィン双神共通の特徴である。また『リグ・ヴェーダ』においてアシュヴィン双神は固有名を持たない神として登場している。(『インドヨーロッパの詩と神話』)
であるならば、(将来「汎インドヨーロッパ神話」の仮説が実証がされるかどうかはさておき)、この「神の双子」のモデルケースを追っていくことでFate世界における「太古の双子神」ディオスクロイの原像についても追っていけるのではないだろうか。
次の回では「神の双子」のモデルケースであるインドのアシュヴィン双神やラトヴィアのデーヴァ・デリ、更に学者らが想定している「汎インドヨーロッパ神話」仮説における「神の双子」について話をしていければと思う。
○ ○ ○
今回は「ディオスクロイ」に関わる話としては以上で終わりである。
ここからはその前段階として、学者らが「汎インドヨーロッパ神話」仮説を生み出すに至った背景と、それが現実世界においてどのように扱われているのかについて簡単に話をしたい。
本件はこの一連の記事の焦点である「双神ディオスクロイの起源を探る」という内容とは直接は関係してこないため、読み飛ばしをしてもらっても次の章には影響しないように作ったつもりである。
この仮説は神話史を語る上で非常に魅力的な内容だが、同時に多くの論争を巻き起こしてきたものでもある。あまり世間一般に広く認知されているとは言い難いこの仮説を次回に扱う以上は、最低限の背景について記すべきと考え、今回の記事で概略のみ示すものとしたい。
「汎インドヨーロッパ民族」の移動仮説について
さて彼らの背景を掴むためにも、「神の双子モデル」に言及する前に、簡単に現在の「汎インドヨーロッパ民族仮説(語族ではない)」について説明する必要がある。(ここからは簡単に「汎印欧仮説」と呼ぶ)
※なお、この点については私も上辺を理解しているだけの内容になるので誤りがあれば特にご指摘いただければと思う。
繰り返しになるが、「言語学的な意味での汎印欧仮説」は元来19世紀の学者らが始めたものであった。この内容は「ヨーロッパ人」と「インド・イラン人」は共通の言語を本来持っており、前者から後者、あるいは後者から前者に波及したのではないかという内容だ。
やがてこれらの「汎印欧仮説」は徐々に言語学的な内容から「ヨーロッパ人の起源」に論点が移っていく。
19世紀の学者であるミュラーは、元来ヨーロッパ人とインド人は共通の「民族」であり、インドに住む人々が西に渡り現在のヨーロッパ文化を立ち上げたのだとした。この学説は「インド人」「イラン人」の自称であった「アーリア人(高貴の意)」という名前を取って、この説は「アーリアン学説」と呼ばれていた。
「アーリアン学説」は20世紀の民族運動やオカルティズムと関わり、残念なことに世界に大きな傷痕を残すことになった。このことは学説が思想や政治に利用されたという点で非常に残念なことだが、ここで多くは語らない。ただし現在は概ね否定されている学説であることは述べておく。
否定された理由は言語学的な推測と考古学的な証拠との不一致である。
一例を挙げれば、かつては日本の教科書にも書かれていたという「インドへのアーリア人侵入と先住民族の征服」という内容は言語学や「ヴェーダ」の記述内容の解釈などを根拠に作られた推測だったのだが、この記述は考古学的な発見により消えようとしている。実際の発掘により、侵入時期の前後で民族的にも文化的にも切り替わりがなかっただろうことが近年判明した為だ。(例えば火災の遺構や損傷を負った遺骨が発見されない)
他の地域でもDNA鑑定などを行った結果、「アーリアン学説」に一致する根拠は見つからず、汎印欧仮説は大きく方向転換を迫られることとなった。
(※インド・イラン人が同一文化の担い手であったろうことはほぼ受け入れられているが、インドに侵入したインド・イラン文化の担い手が果たして共通民族の「アーリア人」であったかは判明していない。スキタイ系などの可能性も示唆されている)
現在、それに代わるものとして比較的有力視されているのはマリヤ・ギンプタスによる「クルガン仮説(有力視されているのは正確にはアンソニーによる修正版)」である。(『Bronze Age Cultures of Central and Eastern Europe』1965)
ギンプタスの提唱した当初の「クルガン仮説」はクルガンという墳墓が浸透した地域を時代別に追うことで立てられた仮説になるが、ギンプタスによればこの広まり方は戦争によって発生しているという侵略史観であった。しかし実際は先述の通り戦争の痕跡が見つからないなどの不一致があり、これもまた否定されている。
デイヴィッド・W・アンソニーはこの「クルガン仮説」と考古学上の差異を調査して修正・発展させた。(『The Horse, the Wheel, and Language』2007)
彼の書いた『馬、車輪、言語』は和訳もされているので良ければご興味のある方は一度読まれるのも良いと思うが、修正後の「クルガン仮説」について関連する内容だけ簡単に紹介しよう。
クルガン仮説(アンソニー修正説)
図:クルガン仮説による印欧語族の浸透(Wikipedia CC BY-SA 3.0ライセンス)
English: Indo-European expansion 4000–1000 BC, according to the Kurgan hypothesis.Even within the Kurgan hypothesis, there is considerable uncertainty, mainly depending on assumptions about the w:Tocharians, the w:Corded ware culture and the w:Beaker culture.The central purple area is supposed to show early w:Yamna culture (4000–3500 BC); the dark red area could show expansion to about 2500 BC, and the lighter red area expansion to about 1000 BC.
この説によれば、紀元前6千年紀にカスピ海沿岸のステップ地帯に現れたのが汎印欧語族の始まりという。
実際にはその二千年ほど後の紀元前3500年頃に乗馬が行われるようになり、その時代にメソポタミアなどとの交流を行いながら「汎印欧祖語」が使われ始める。
これを裏付けるのが言語学と考古学であり、前者は紀元前4千年紀に発明された「毛織物」と「車輪」という言葉の語形変化にて推測し、後者は発掘された馬のハミ(乗馬の形跡)によって乗馬が行われた地域の推察を行なっている。
やがて汎印欧祖語は固定化し、紀元前二千年紀には戦車が発明され、瞬く間に世界中に広まる。
その間、気候変化などの影響により、一部の民族・文化・言語等が南部のインドに流れていき、一部が北欧やバルカン半島に流れていくことで言語の拡散が行われたというものである。
ギンプタスによる初期のクルガン仮説は「馬を扱うようになった遊牧民による侵略史観」であったが、先述の通り考古学的には負傷した人骨や村を焼いた跡などの「侵略」の形跡が見つからないケースが多く、この「移動」は平和的なものであったか、単純な文化もしくは言語のみの移動(人を伴わない文化の伝達)いずれかであったと考えられている。(アンソニーの説はその辺りの修正も図られている)
「汎印欧仮説」の課題と注意点
ここで、この「汎印欧仮説」の注意点をいくつか述べよう。
一つは「移動」したものが何だったかが、学者によって違うことだ。
簡単にいうと「A.単純な言語的類似(印欧祖語)にとどまるのか」「B.文化的な移動(人を伴わない文化の移動、もしくは多民族間の文化の共有)と見るのか」「C.民族的な移動(人間や人種を伴う移動)と見るのか」である。つまり同じ用語の中に三つの定義が混在している状態なのである。
例えばアーリアン学説においては「C.民族的な移動」と捉えられたことで民族至上主義の温床となった。(インドでは白人系の「アーリア人」が非白人系の「ドラヴィダ人」を征服したと考えられていたが、実際はこうした事実は考古学的にはないことが判明している)
次回に取り上げる「汎インドヨーロッパ神話」や「神の双子」モデルは、Bの「文化的移動」が起こっている前提での調査となっていることを理解してほしい。
またクルガン仮説自体も未だ決定的ではないことが2つ目の注意点である。
理由はいくつかあるが、そのうちのひとつは考古学的な実証がまだ不十分であると思われているためだ。言語学は正確な時期やエリアを推測することが極めて困難であり、解釈には幅がある。そのため言語学のみで「インドヨーロッパには共通の祖語や文化があった」証拠とすることは極めて難しいと言われている。
アンソニーは考古学的な実証を同時に行うことでこの解決を試みているのだが、提示した遺物の提示数が限られており、まだまだ調査の余地が残されているという意見もある。ひねくれた見方をすれば、「恣意的な利用」をしており都合の悪い遺物を省いたのではないかと疑う余地が残されているということでもある。
コールなどの一部の学者は、上記のような理由を盾にアンソニーの「クルガン仮説」に対して慎重な姿勢を崩してはいない。もっともこれは「汎印欧仮説」が20世紀に大きな問題をもたらしたことや、場合によっては新たな民族至上主義(欧州民族が太古の昔から世界を動かしてきた)につながりかねないことという社会的な理由もある。こうした課題については考古学的な資料の数を増やしていくことで徐々に解決していくことだろう。
「汎印欧仮説」についての紹介は以上となる。
学問は真実を追い求めることが本質である。故に社会に囚われる必要はなく、現れた結果を真摯に受け止めて、考察し続けることが学者の使命である。
一方でこうした学説を盾に民族浄化が過去に行われたことは事実であり、この出来事は多くの傷跡を残した。21世紀においてもなお、それを信奉する人々、あるいはその反論として自国こそ印欧民族の起源であると訴えるナショナリストの団体も各地にあるという。
学者たちはこうした学問と社会の微妙な天秤の上で真実を見極めるべく日夜研究を進めているのである。こうした努力があれば、どれほど先の未来になるかはまだわからないが、きっとこの論争にも真実の光明が差す日が来ることだろう。
今回のまとめ
今回はディオスクロイの起源となりえる「神の双子」を取り巻く背景について簡単に解説した。
なお一連の主題は「神話をモチーフにしたフィクションのキャラクターである双神ディオスクロイの調査」であり、今回述べたような社会的な背景や学者の論争などが直接関わり合いのある内容だとは考えていないが、どうしても部分的に踏み込まざるを得ないところ(次回の「神の双子」)があるので紹介した次第である。今後は改めて触れる予定はないのでご了承いただきたい。
まとめとしては、今後語ろうとしている「汎インド・ヨーロッパ神話」仮説や「神の双子」という存在はまだまだ研究の余地が残るものであること(ついでに実は割とセンシティブな部分がある内容だということ)さえ抑えておけば失礼にならないだろうし、これ以上詳細を追う必要はないだろう。
※ついでにいえば、神話や歴史を研究する最前線の学者たちの地道な熱意と努力の積み重ねが『Fate』を始めとする多くの現代ファンタジーの素地となっていることを考えれば、せっかくの機会でもあるので取り上げた次第である。
‥‥‥さて。
今回はちょっと暗い話なのでしんどかったですが、次回は元の話に戻り、ディオスクロイのルーツを巡る「神の双子」説そのものについてフォーカスします。
※今回の内容は現代社会に影響を与えている内容でもあり、誤りがあれば、特にご指摘いただければと思います。