トンネルの化物
その入口に観光案内所で借りた自転車を止める。人のいない山の中、坂道をせっせと漕いできた自分の鼓動はまだ落ち着かない。広島県、大崎上島町の上組トンネルの前にいる。
「片方の入口の赤レンガの佇まいと、もう一方の石造りの雰囲気が全然違う」
かつて住民たちが手作業で掘り進めた、長さ約50mほどの上組トンネル。ふたつの集落をつなぐため、その両端から掘っていったという話を聞いた。
トンネルの上を木々が覆うその入口に立つと、山の生き物たちの声が一層大きく聞こえる。そっと中を覗いてみると、両手を横に伸ばして広げたらちょうど両側の壁に手が付きそうな程の狭い暗闇の先に緑色の風景が光っている。
一歩。
トンネルの中に足を踏み入れた瞬間、音が小さくなる。もう一歩、もう一歩。進むほどに聞こえてくる音は自分の足音だけになる。ざらざらした壁に反射する自分の靴音が少しずれて重なって、どうしようもなく背後に何者かの気配を感じてしまう。
子どもの頃、習字を習っていた。その帰り道は街灯も少なく、当時はとても怖かったことを思い出していた。振り向いたが最後、とんでもない化物が長く濡れた髪の隙間から、巨大な目玉をギョロっと開いて見つめてくる。そんな恐ろしい光景を僕は見たか見ていないか、暗い帰り道が怖くていつも走って帰っていた。
あぁしまった、振り向けない。トンネルの中でそんなことを思い出しているうちに背後の気配はすでにはっきりと形を持ち始めている。まだ日も明るい時間だというのに、化物はぴったりと僕の背中にくっついて離れない。歩くスピードを少しでも変えてしまえば、きっともう一つの足音に気づいてしまう。できるだけ同じ速さで、少しだけ大股に、光の方へ歩き続けた。入口があって出口がある。――いや、入口と出口しかないのだ。何かの間違いでその真っ直ぐな道から外れてしまったら、僕はもうどこからも帰ってくることはできない。入口に置いたままの自転車が夜になっても放置されている絵が、頭から離れなかった。
背中の化物と一緒に出口にたどり着いた時、ようやく振り返ることができる。長いとも短いとも言えないその距離の暗闇が、先ほどよりも少しだけ柔らかく見えた。トンネルを抜けた先には、山と山に挟まれたみかん畑が広がっていた。入口でけたたましく鳴いていた鳥の声も消えて、遠慮がちな鈴虫が秘密をささやき合うように小さく歌っている。15時を過ぎた瀬戸内の空には、頼りない長さの飛行機雲が一本だけ浮かんでいて、あとは何もなかった。化物はいなくなったようだった。
先ほどまで出口だったその穴が、いまは入口になっている。先ほどの赤レンガとは違う、ところどころに苔の生えた石が積みあがっている穴が、何事もなかったようにぽかんとこちらに開いている。この時間、こちら側は影になっていて、ひんやりとした秋の風が心地よかった。
入口と出口の交替を繰り返すように、その後は何往復かトンネルを歩き続けた。トンネルの中には、明確な境界があることを発見する。なるほど、両側から掘っていた人間たちは、ここで遂に落ち合ったのかもしれない。その瞬間まで入口だった二つの穴がそれぞれ出口になった日のことを、ここで生きた人のことを想う。山の下にぽっかりと穴を開けて、彼らは誰に会いに行ったのだろうか。
ふたつの集落をつないだ小さなトンネルは、今はもう使われてない。近いうち、トンネルの隣に車も通れるような道路が作られるらしい。いよいよ人が立ち寄らなくなったトンネルのなかの化物は退屈そうに待っていて、物好きな旅人が通るたび、また静かに足音を重ねるとニヤリと笑ってついてくる。
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