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「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」を読んで。

夏休みの宿題読書感想文定番の書き出し。小学生かっ。笑
きっかけはツイッターのタイムラインに流れた『弟が万引きを疑われ、そして母は赤べこになった』でした。

まるで落語じゃないか!岸田さん一家は落語の国の人たちなのか?寄席で落語を聴くことが好きなので岸田さんの描く文章のファンに一気になりました。

『母に「死んでもいいよ」といった日』

自分の母親は2回私たち家族の前で「死にたい」と言ったことがあります。

私が子供の頃からあまり身体が丈夫な母ではなかったのですが1度目は私が19歳のとき。

病気の正体がわからずにあちこち遠くの病院へも行って診察を受けましたが診断はどこの病院へ行ってもぼんやりとしたもので、ある日母が「人間ってこんなに痛くても死なないんだね、死にたい」って言いました。担当医の居ない日でしたが かかりつけの病院へ。車に母を乗せると発進時の振動にですら首に激痛がはしるようで、車で病院へ行くことは諦めて徒歩で行くことに。母は両手で首を押さえて一歩一歩ゆっくり歩き私はそれに付き添ってゆっくり歩いて病院へ。その当日病気の正体がわかった時には もう治療のしようがない、病院まで歩いたことが奇跡、今すぐここで死んでしまってもおかしくない、死に様まで聞かされてもう耳を塞ぎたい診断結果で……。私が15歳の時に乳ガンで右乳房全摘からの首の骨への転移、見せられたレントゲン写真には竹の節のように連なる骨の一部が素人目に見ても溶けてなくなっているように見えて母の痛みはまさに死の痛みだったわけで。

2度目はその5年後、寝たきりになった母が「もう死にたい」って言ってこの時は家の時間が止まったようになったのを覚えています。家族もずっと我慢の日々を送っていて限界に近くなっていたのか?みんなで一緒に死んじゃおう。って空気が流れて、もっと強い魔に魅入られていたら……。なんで踏みとどまれたか?今の自分ではまだ文章に書けないんだけど。

で、岸田さんと幡野さんとの禅問答のような会話は私たち家族の永遠のテーマ。私たち家族は我慢の日々を送り少しでも長生きしてもらって見送る方を選択して後悔なく母を送ることができたけど。母はどう思っていたんだろう?とか色々と考えてしまう。家族のかたちもそれぞれで、その時々の事情もあるから正解なんて人それぞれ、いや正解なんて無いのかも知れない。

当時の私は岸田さんのようにトラブルや辛いことも、悔しいからそれを面白がれる性格ではなくて自分に自信がなくて自分が大嫌いで。
歳を重ねて普通を装おう(我慢)ことはできるようになったけど今もその傾向は多分にあってバランス崩すと自分が悪い!悪い、ごめんなさい、ごめんなさい、ってずっと謝っているような精神的になって仕事できなくなった時もあって、そんな時にたまたま落語を聴く機会があって凄く自分が楽になった噺に出会えて、落語の国の住人はみんな優しく、エヴァンゲリオンでいえは硬いATフィールド(心の壁)など存在しないバリアフリーな人々なのです。

小間物問屋の旦那さんの仮通夜、長屋一同でお悔やみをしているなかに与太郎さん(落語で与太郎というと、どこかボーっとして皆んなに世話をかける今で言えばおバカキャラ)旦那が亡くなったことを理解できずにいて、もう会えないとわかった時、「オイラはいつもボーっとして抜けてるから、ボーっとしてちゃいけねえ、もっとしっかりしなきゃいけねえって、みんなは言うけど旦那さんだけはオイラと会うと必ず「与太さん、与太さんはそのままでいいんだよ。そのままでいなさい。そのままの与太さんが私は好きなんだ」って言ってくれたんだよ。そんな優しい旦那さんにもう会えないのか?そんなの嫌だぁー」と大泣き。通夜にいたみんなも涙するシーンがある噺を聴いて噺の本筋じゃないこのシーンを聴いて号泣してしまって岸田さんの本読んでこの落語の噺に出てきた旦那さんの言葉のように、そのままの。今の自分でいいんだって言われた気がするのです。救われたのです。

落伍者だと思ってた自分が落語を聴いて楽になって落語=楽語だって思ってます。

事実は小説より奇なり。
現代の落語(楽しい話)を語るように描く作家岸田奈美さんは楽語家だ。

お後がよろしいようで🙇‍♂️

#キナリ読書フェス

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