人権意識を希薄にしたい【原発・自動車産業レポ①】
年始から能登半島地震にともなう志賀原発の報告に対して批判的な意見が飛び交っています。僕も原発について批判的な立場をとる人間のひとりですが、電力をどう代替するのか、脱原発はコスト的に現実的ではない、身の程を弁えろとかいろいろとかえって批判が飛んできます。
もともと原発は日本が農耕・牧畜社会から「工業化社会」へシフトした際の産物と考えられており、原発施設の建設と自動車普及に伴う交通設備の建設は類似する仕組みによって国策を通して推進されてきました。
ちなみに道路建設と原発建設にかかる費用を税金から賄うよう制度設計に携わったのが田中角栄です。原発は高度経済成長下における環境汚染や社会党の原発反対と批判にされされてきましたが、その後おきた石油ショックなどを理由に電源三法ができます。
原発と自動車は大きな経済的成長と輸送や交通・電力などインフラの柱として機能することで、その他の産業も成立し多くの雇用を生み出すなど社会的に必要不可欠なものになりました。
しかし、莫大な経済成長に寄与しながらも、大きな欠陥がありました。
まず原発、2011年3月にあまりにも大きな災害をもたらした東日本大震災では、福島第一原発事故が被災しとんでもない被害総額となりました。実はこの被害総額について原子力損害賠償法では、民間保険会社で賠償できる限度額を超える事故が起きた場合、ある条件において政府が援助を行うことになっているのですが、政府が必ず責任を負うことを保証しているわけではないので、最終的に誰も最終責任を負わない体制になっています。
詳細は慶應義塾大学、歴史社会学者の小熊英二先生の著作『社会を変えるには』にて記述されています。なぜ原発事故が発生して賠償責任を最終的に負わないかも含めて書籍を確認していただければと思います。
1990年代末以降、経済の停滞による電力需要の低下、民主化と情報公開の推進、経済の自由化などの理由から原発の増設が停滞。加えて1日に5000万円も費用を投じながら稼働できないままの施設や、建設開始当初より3倍近い2兆2000億円を費やしながらも技術的な問題が解決せず、1日3億円と言われる維持費をかけても本格運転に至らない施設があるなどかなり大きなコストがかかってしまいます。
ちなみに原発コストは以下のように変動します。
ようは、国民の安全意識・人権意識・発言力などが低い方が政府にとって都合がよく、政府は強い権威を保持していたいわけです。
実はこれとほぼ同じように人権意識が希薄であった方が自動車の普及にかなり都合がいい面があります。今後、自動車と資本主義の問題によって犠牲者がどれだけ出ているかについて論じていきます。次回、自動車がどのようして様々な公害をもたらしたのかをお伝えできればと思います。
ここまで言うと、まるで自動車や原発など生活にかかわる交通手段や電力といった主要なインフラ部分を否定したら、お前の生活も成り立たないぞと突っ込まれそうですが、それだけの莫大な社会的負荷をかけながらでないと運営できないこと、多くの犠牲を孕みながらでないとインフラを維持できないだけに質(たち)が悪いのです。
もちろん今すぐに脱原発とか発電を原発以外に全て頼るというのは無理があるかもしれませんが、もともと日本は水力発電が活発で、地熱発電が全体の発電の0.3%でありながら、世界第3位の地熱発電の資源を有していると言われています。これも運用までに莫大なコストがかかると言われますが、世界では地熱発電への投資が進んでいます。
またドイツでは昨年、福島第一原発事故に影響を受けて脱原発を完了。ベルギー、スイス、台湾など今後、脱原発を目標としている国があります。もともとは福島第一原発事故(2011年)だけでなく、その前からチェルノブイリ原発事故(1986年)、スリーマイル島原発事故(1979年)などの事故により脱原発を表明する国が出てきた歴史があります。念のため補足すると、そのころに石油などエネルギーの資源価格が安定していたことから脱原発を表明していたという経緯があったようです。