典型的アニオタの軽薄さを論ずる
思うに、深夜アニメ、とりわけ美少女アニメに傾倒する典型的アニオタはどのようなアニメにおいても割と薄っぺらな物語に感動してしまう傾向がある。
これは人生経験、あるいは学問分野、他の文化的作品を通した物の見方に欠けるからではないだろうか。
私の周囲に存在する(した)アニオタ達を例に挙げよう。
彼らは普段、アニメや漫画、ラノベ以外の作品に興味を持つことは稀である。
読書好きを公言しても、小説や新書を読むことはほぼ皆無であるため、哲学観や学問知識は上記のコンテンツ、あるいはネットから適当に拾い集めるしかない。
テレビではアニメと多少のバラエティに目を通し、ネットではvtuber、ゲーム実況、アイドル声優などの"オタク"コンテンツを積極的に視聴するため、時事問題には疎く、知っていたとしても二次、三次ソースを経由した歪んだ理解でいることが多い。
音楽の嗜好も一様に"オタク"的だ。
アニメ内で流れる曲も、HiphopやJazz、Classicなどのジャンルに対しては殆ど興味を持たず、煩雑なEDMとアニメ声のネットリした質感の歌ばかり好む。
よく考えてみてほしい。メディア作品の本当の魅力というのは、アニメやゲームだけで完結するものではない。
作品内に学問的要素が含まれれば、それらに対する知識があればより楽しみは増え、自身に無かった発想を吸収できる良い機会にもなる。オマージュやパロディが含まれれば、その元ネタを知っていることが作品の面白味にもなる。
音楽にしても、ネットリアンアンキンキン声が受け入れられないのは単に不愉快であるからだ。たとえアニソンだろうがセンスのいい曲は一般層にも支持されるものである。
そのセンスすら人それぞれだと言い訳しようものなら、救いようがない。
コンテンツへの理解を深めることは、交友関係を築くきっかけにもなる。他者との関係がまた、コンテンツに対する新しい楽しみを増していく。
私は絵を描くことが得意であったので、中高ではイラスト、自作漫画、デザインを通した人との関わりが多かった。
その中で知らない分野の知識、経験を友人から学ぶこともあった。アニメ以外の趣味である音楽やファッションも、分かり合える友人たちがいなければ、今も関心を持たなかったかもしれない。
人との繋がりはあらゆる創作物との向き合い方を変えるのだ。
かつて私も"オタク"の友人と積極的に関わろうとしたことがある。
美少女一辺倒なアニメ以外にも知ってもらおうと、彼らに作品を薦めてみたことがある。
とりあえず美少女アニメのカテゴリーからやや離れたものを勧めようと思い、作画やシナリオに定評のある作品(渡辺信一郎、梅津泰臣、押井守、今敏など)を一部紹介してみた。が、手応えは無かった。
それどころか、これらのアニメはマイナー志向で、選民的、スカしているという反応が返ってきた。
彼らにとって、重い作風や抽象的な表現は癇に障るものだったようだ。登場人物に可愛い女の子も登場するのだが、興味を持つ点はそこだけではなかったのだ。
私は過去のキモオタだった頃を思い返し、ある結論にたどり着いた。
彼らにとってアニメは手軽に消費できることが良さであり、登場人物や物語の内面的魅力はさほど重要なことではない。
刹那的快楽を欲し、上っ面だけの哲学や感動の寄せ集めにカタルシスを感じ、勝手に考察を広げ、勝手に納得し、関連商品に金を落とす。
典型的な消費者らしさをアイデンティティとしているため、自分達が消費することで、コンテンツは潤いを増すと思い込んでいる。
そんな保証は無いのに。
はっきり言って、乱造される深夜の美少女アニメ、及びその関連作品の殆どはソフトポルノの域を出ないし、ひたすら扇情的かつ商業的だ。やがてそれらの軽薄なコンテンツに慣れてしまうと、アニメに限らずあらゆる文化作品において低次元を求めてしまう。
理解にカロリーを消費するものを忌避するようになれば、楽しめるコンテンツの幅は大きく狭めることになる。