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「自分には、できることしかできない」から始まる自分の人生ーーー等身大「鬼嫁」の人生の歩き方

ゲストハウス、書店、カフェ、映画館…湯梨浜町の松崎地区は、鳥取県外の若者たちが次々移住して事業を始めるようになり、それがさらに新たな移住者を呼びこむなど新しいコミュニティをつくっているエリアとして知られています。

野口さんは松崎出身。現在は家業の総合衣料店を経営しており、この10年、街に移住してきた若者たちを積極的にサポートしてきたひとりです。また、10月の3と8のつく日に商店街で行う地域伝統の朝市「三八市」を復活させたり、近所にある実家の玩具店を改装してコミュニティースペース「梅や」をひらくなど、その活動は目を見張るものがあります。

「鬼嫁」の愛称でも親しまれるほど、いつもパワフルで活動的。周囲が思わず明るくなるような大きな笑い声が印象的な野口さん。ひとりで前へと突き進むようにも見えるそのパワフルさとは裏腹に、そこには「自分には、できることしかできない」というある種の諦めと、その諦めがあるからこそ他者を頼ることができるという考え方がありました。

その生い立ちと、これまであった選択や決断、大切にしていることなどを聞きました。

楽しくやってるから楽しい、三八市

――三八市を復活させたきっかけは?

野口:実家が商売をやっていて、嫁ぎ先のお父さんも「三八市は地域にとっても商売にとっても繋がりを作るために大事で、なんとかせんといけん」って言われていて。私自身、昔の三八市がにぎやかですごく楽しかったことを覚えてたんです。なので、次第にボランティアの仲間に入れるかなって思うようになって、聞き取りをしては、新しいたたき台を大学ノートに書いたりしたのが最初です。そして地域の女性4名で集まって、2010年に「三八市実行委員会」をつくりました。地元でお店をしてる人に「一日でもいいんで参加してもらえませんか、こんな感じでやりたいんです」って、一軒一軒声をかけていった。そういうところから始まって、もう手作り。やっていくうちに蓋を開けてみたら結構にぎやかになっていた、という感じで。

結局やってる人が楽しくやってないと来る人が楽しくないでしょ、今のメンバーはみんな楽しいって言ってやってるんで、来た人も多分楽しい。

――自身の家庭や仕事のことをしながらは余裕がないとなかなか難しいのでは?

野口:体力もあったから全然そんなことはなくって。だから店の仕入れも行ったりしていたけど、夜には計画をノートに書いて、「こんなのやりたいんだけど」ってメンバーのところに持ってきました。あとはそれぞれがすごいネットワークを持っているから、4人揃ったら何でもできるねって、そんな感じでした。

とにかくうちのメンバーは、みんながバーッと意見を言う。誰ひとりとして黙ってないし、「こっちの方がいいんじゃない」とか言い合ううちにまとまってくる。

上下関係もないし、トップって誰でもいいんです。どっちかと言うとみんなトップになれる人ばかりだけど、縁の下の力持ちになれる人でもあって、人のために動いてるんですね。

今思うと、もしかしたらそういう誰でも意見を言い合って気持ちいい関係があるというのは、自分の実家の岡村家がそういう雰囲気だったことのも影響してるのかなって。

ああ、もう何でもできるわ、私

野口さんは、松崎でおもちゃ屋を営む岡村家の長女として生まれました。両親と祖父母、弟と暮らした幼少の頃より、その活発さとしっかり者の姿が見てとれます。

野口:外遊びが大好きで家にいることはなかったですね。男の子の友達が多くて、おもちゃでのままごととかではなく、かけっこしたり東郷池でシラウオを採ったりしてっていう、そっち系でした。お店の手伝いは、せざるを得なかったです。小学校一年生のころから「いらっしゃいませ」って。

――商売やっている家の子どもって、お店を手伝ったりで早熟なイメージがあります。

野口:おばあさんが急に体調がわるくなって倒れた時も、弟はおろおろしていたけれど、私は隣の家に行って「おばあさんが倒れた」とか言ってね。そういうところは昔からしっかりしていた気がします。私が育った岡村家って、子ども相手でも「お前黙っとれ」ってことは親は絶対言わなくて、意見があれば討論ができる家でした。悪いことをして叱られることもあったけど、「これはどう思う?」ってなったら意見を言える家だったので、それがやっぱり今に活きてているのかなって思います。

小学生当時から現在と同様、活発でしっかり者の印象の野口さん。中学生になると、学生時代を通して傾倒するバレーボールに出会うことに。

野口:中学校に入ったときに「卓球部に入ろうかな」とか「ソフトボールにしようかな」とかいろいろあったんだけれど、卓球とバレーの部屋が隣にあって、卓球を見たら人がいっぱいいて、少ない方のバレーにピュッと行きました。

――人がいっぱいいたら「こっち人気あるんだな」って入っていきそうですけど。

野口:バレーは全然したことないから、ちょっとしてみたいなって興味が湧いたんです。で、初めてやったときに空振りして、「これ上手になりたい」って思ったんだったかな。そこから始まった気がします。

当時、教員になる夢を持っていた野口さんは、高校卒業後、東京の大学へ進学します。

野口:東京に行ったらバレーはやらないぞって思っていたんだけど、小学校課程だから自分の得意種目の科目を受ける試験があって。それでバレーで受けたら合格したんだけど、そのまま一部リーグのチームにも入る羽目に。私は技術がずば抜けていたわけではなかったけど、結局なぜか、中・高・大学とずっとキャプテンをやってました。

挙句、鳥取で講師の口が見つかって河原第一小学校に採用になったんだけど、帰ってきたら「わかとり国体」があって。それで、教員をしながら練習会場に行く生活になりました。夜8時ぐらいまで仕事して、その後練習に行って夜中に帰る。国体やっているから遅刻はしょうがないって言われるのが癪に触ってすごく嫌だったから、朝一の汽車で学校に行って、お茶とか何とか用意して…。その生活をしたときに「ああ、もう何でもできるわ、私」と思いました、どんなところに行ったって大丈夫って。

オッケーオッケー、面白い

野口:そうこうしていたら、今度は結婚するかって話に。教員に正式採用になって続けるのかなっと思っていたのに、嫁ぐ時には「商売に専念して欲しいから辞めてくれ」って。「あ、そうですか」って、それで商売に専念しました。

――結婚のきっかけは?

野口:実家の近くの野口家のおじさんが、うちの母に結婚の話を持ってきました。「誰と結婚ですか?」「野口の息子ですよ」って。母が電話で「今日冗談みたいな話があってな」ってそのことを教えてくれて、私も電話口で大笑いして。そんな感じでした。主人は小学校・中学校と一緒の同級生だけど、接点はなかったですね。子どもの頃の遊びも全然違っていて、通学で毎日会ってるけど全然ジャンルが違いますねって感じ。

――お見合いや紹介など、そういう時代だった?

野口:いや、恋愛でもなんでもあった時代でしたけど、ただ父親がすごい気にいっちゃって、トントントンと決まっちゃった。25歳の時だったと思います。婚約期間があって、国体が終わったら結婚式をしようって。

――そういう風に決まっていくのはどんな気持ち?複雑な思いなどなかったですか。

野口:うーん、オッケーオッケー、面白いっていうか。こんなに近くでこんなに知らないのって面白いと思ったんですかね。それに教師って子どもの命を預かってる職業じゃないですか。中途半端にできる仕事ではない、家族の理解がないとできないなっていうのがあって、だからスパっと辞めれたんだと思う。それに商売の方もまったく嫌いということはなかったので。大学の同級生にそのうち商売をやってるだろうって言われたことがあって、「本当になったな」って。

結婚して教員の道をすっぱりやめた野口さんは、嫁ぎ先の商売を手伝うことになります。

野口:野口商店で扱うのは、総合衣料。はきものとか作業用品、衣類も置いてます。

新婚旅行から帰ってきたその日から店に立って、商品を覚えたりディスプレイしたり、一年目から結構な金額を持って仕入れにも行きました。できるとは思ってないけど、でもいざやるんだってなったら頑張ろうってすごく思えて。

――できるとは思ってないんですね。ご実家も内容が違うとはいえ商売の家だったし、できると思ってたのかと。

野口:いやいや、最初から思っていたわけではないです。なぜか根拠のない自信もあったけど、でもやってみたことがないことだから、どうやってやるのかなって好奇心から始まりましたね。

進むために、立ち止まる

結婚し、新しい仕事を覚え、野口さんは商店を切り盛りしながら、2人の息子と1人の娘を育てる。これまで持ち前の体力と前向きさで突き進んできた野口さんでしたが、家族のことをきっかけに立ち止まることになります。

野口:息子2人が野球部にいた時は大変でした。夜10時に帰って来てご飯食べるでしょ、それを片付けたら洗濯物がどさっと2人分。毎晩1時半に寝て、朝5時に起きる…座ったらどこでも寝てましたね。

一番下の息子が高校三年の時、すごくしんどそうにしていて。同じ野球部で同じポジションだった兄がより実力があったと思われていたから、当時は同級生からのプレッシャーもあったんでしょうね。 結局、高校を休ませることになりました。友達にも、戻るのに何年かかるかわからないな、って言って。1年が経つ頃にようやく、息子に何がしたいって聞いたら「やっぱり野球がしたい」って。やっぱりな、と思いました。

そこで、高卒認定の資格をとって進学してもう一回野球をしようって話になったんです。受験資格をとって専門学校にも合格して。でも息子もいざ外の世界に出ていくとなったらやはり不安なんでしょうね、自分を試すために調理場にアルバイトに行くようになりました。手もあかぎれだらけになるしハードな世界で、ある日具合が悪くて一日休んだことがあって。高校の時だったら監督から「休むなんて怠けてる」って捉えられるでしょ?でも板長さんは「あいつは本当に頑張っとるけな、くたびれたんだろう」ってすごく心配してくれてて。そのことを息子に伝えると、すっごい嬉しそうな顔をして、認めてもらえたと思ったんでしょうね。その頃から少し変わりました。

結局、進学してからの野球もとても厳しい場所だったんだけど、自分の身をさらけ出すことを覚えたのか、そこからはもう心配がいらなくなりましたね。専門学校で医療を学んだことと、怪我で野球を辞めることがきっかけで、今は治療家として仕事をしてます。

うちの家族は息子が休んでるときに、一切何にも言わなかった。そこがやっぱり私も親として勉強になりました。自分の根っこを持ちながらあえて口に出して言わないっていう姿勢がその時初めてできたんです。今後どうなるかわからないっていう不安が何年もありながら、いろんな人に支えられながらできたこと。私は友達に「どんどん切り開いていく力はあるけど、じっと黙って我慢することができないところがあるから、そこを改善したらいいよ」って言われたことがあったから、それを改めて突き付けられたような経験でしたね。

すごいことはできないけど、できることはある

――これからやりたいことはありますか?活動は充実しているように見えますが。

野口:三八市はなるべく続けていきたいです。予約販売で地域の飲食店を応援する「テイクアウトマーケット」のような新しい展開も反響がありましたし。けど、これは続けてやりたいって言ってくれる人を待つしかないので、いつか消滅したらしちゃったで仕方ないなと思っていて。店の方も後継もいないし、あと5年くらいかな、なんて思ってるんです。その代わり、孫ができてから、晴れた日に行く場所は沢山あっても雨の日に行く場所が本当にないなって気づいて。今あるお店のスペースの半分くらいは、小さい子どもが雨の日に遊んだりできるようなスペースにして使ってもらえたらいいなあとか漠然と考えてたりはしてますね。

――振りかかる困難や思いがけないことに、それを一旦受け入れて取り組んでいく姿勢が印象的でした。

野口:2月に母親が亡くなりました。亡くなるひと月くらい前に「自分は悔いは一つも残らない」って言ったんですよ。母はかつて20人ぐらいを看病したんだけど、大きな困難が降りかかってもめげることなくちゃんと向き合って乗り越えてました。逃げたら4倍5倍と返ってくるでしょ。でも逃げずにその都度対処していく精神、それは母の生きてきた雰囲気を見てきて、いま私もそうなって来てるのかなって思うようになって。悔いがないようにする。過剰なこと、自分の実力以上のことはできないんだけど、できる範囲のことはするっていう姿勢。それは生活でも商売でも気にかけていることですかね。

取材の最後、若い移住者の家族が病気になった時、地域の人たちが交代でひとりの子どもの世話をした時のことを、こう話してくれました。

「すごいことはできないけど、私はこれならできる、あなたはこれができる、っていうのを繋いでいったら、これだけできたって感じ」。

松崎の若者たちは、困ったことや相談ごとがあると今も野口さんを訪ねます。

彼らのこのような関係が今も続いている秘訣は、野口さんの「自分には、できることしかできない」というある種の諦めの態度ではないでしょうか。できることはできる、できないことはできない。できることは手伝うし、できなかったとしても、ちゃんと見守ってくれている。

前に進むことに立ち止まってしまった瞬間、進めない自分自身につい目が向きがちです。でも、その瞬間、自分をいつも見守っているかもしれない誰かについて考えることができたなら。例えばその誰かがずっと遠くにいたとしても、足取りが、心が、少し軽くなるような気がします。

それでも、前へ。
目に見えない不安や「こうあるべき」に、
自分の気持ちが揺らぎやすい時代かもしれません。

過ぎたことを後悔して、悩んで、立ち止まる。

でも、それでも、前へ。
踏み出すことを決めた人のそばには、なにがあったのか。
自分の道を力強く、自然体であるく人たちに話を聞きに行きました。

前へ踏み出すその足元が、ほんの少しでも軽くなったら嬉しいです。

▼YELL FORについてはこちら

文:野口 明生 企画:YELL FOR

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