壊れた家庭に育つと、幸せな家庭に憧れるか、家庭を嫌悪するか
世の中には、恵まれた幸せな家庭に育った人もいれば、荒れた環境で育った人もいる。
私はどちらかといえば、後者に属する。
父は物心つく前にジュワッと消えてしまい、母は生活に困窮しており(とはいえ私は特に不自由無かった)、私は引きこもりだった。
まあ、違いがあるとすれば、私は父がいないことに関しては、あまり気にしたことがない。最初から無いものをどう恋しがるのだろうか?
そう思っていたが、先日、YouTubeで同じように父がいない家庭で育った方が、「父がいなくて寂しかった」と語っているのを見た。
そして、「だからこそ幸せな家庭を持ちたくて、早くに結婚し、子どもを作った」とも。
私の結婚に関する考え方はひねくれているが、ごく若いころの私の結婚や家庭に関する考え方は素朴なもので、誰か素敵な人と結婚し、ふくふくした赤ちゃんを産むものだと思っていた(まあ、世の中に素敵な人なんて存在しないし、子どもを持つことが必ずしもポジティブではないと気づくまでは)。
とはいえ、「崩壊した家庭に育った」から「家庭を持ちたい」と憧れたわけではない。
これは人から見ると、意外な事実かもしれない。
私はかつて、私の育ちや過去が私の判断に影響を与えるとは信じていなかった。「だから何?」と開き直っていた。私は、私のままで胸を張って完璧だという強い信念を持っていたので、何かに憧れたり、欠けていると感じることは無かった。
この差はなんだろうか?
それはもしかすると、モデルケースの有無かもしれない。
「父がいなくて寂しかった」と思う人は、父が居る幸せな家庭を他に知っていて、自分と比べたのだろう。
私も友達や親戚の家に泊まったことはあるのだが、特段他人の家庭を羨ましいと思ったことが無い。
特に、父親がいないせいか、大人の男性に懐くことが無かったので、各家庭の男親に対して親しく接する機会が無かった。むしろ嫌っていた。
それに、家族が全員揃っていてもそうでなくても何かしら問題のある家庭は多く、素敵な理想の家庭などというものは見たことが無い。
強いて言えば、叔母夫婦の家に泊まるのは本当に好きだったが、それは従姉が大好きだったからに過ぎない。彼女がいれば下水道でも喜んで入って行くが、彼女のいない場所はどこであれ、ほとんど価値が無かった。
そんなわけで、私はモデルケースに恵まれていない。それが無ければ、人と自分を比べて欠乏を感じ、それを満たしたいと願う心も生まれないのだろう。
私は子供の頃から若干ひねくれていたが、とはいえ本当に純粋な頃に素敵な家庭を目にし、憧れれば、何か変わっていたのかもしれない。
「大家族を作りたい!」
目をキラキラさせてそんな風に言う自分は全く想像できないが、そんな未来もあったのかも。
結局、何かに不足している時、自分が持っていないものに憧れて、それを得ようと頑張る場合と、自分が持っていないものを嫌悪して、むしろ遠ざかるパターンと、二つあるのかも知れない。
家庭の問題に限らず、ジェンダーや障害について、客観的にいわゆる「恵まれていない」ように見える人と出会った時、どちらに属するのか決めつけず、接して行くことが大事だと改めて痛感した。
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