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手直し前の卒業論文①

「少女マンガの面白さとは何か?
 〜マンガが文明となりえる時代の一考察〜」

要約
 本論文は「少女マンガを読む」と言う体験を通じて少女マンガの面白さを考察しようとする試みである。
 序章「マンガの面白さを論じる不毛さ」では、既存のマンガ記号論や大塚英志に代表される巨視的な見方ではマンガの面白さに真っ向から立ち向かっていないと言うことを明らかにし、他者の面白さを集計するのではなく、自分自身の実体験に基づいた面白さを追求したいと言う姿勢を明らかにしている。
 続く第一章「少女マンガの歴史」では、少女マンガの成立(1953年〜1960年代)からニューウェーブを経て現在(1980年代〜2000年)に至るまでの流れを追っている。「少女の幸せは恋である」と言う少女マンガ成立期の思想が、24年組やニューウェーブのマンガ家たちを経て変容し、思想の多様化が進んでいる現状を発見した。
 第二章「私にとって面白いマンガとその分類」では、実際に漫画を読んで感じた以下の7つの切り口を設定し、読書体験を基にして分類を行った。
①ストーリーの面白さ
②魅力的なキャラクター
③絵柄
④決め台詞、モノローグ
⑤決めゴマ
⑥リアリティー
⑦全体的な世界観(空気感)
 第三章「他者にとって面白いマンガとその分類」では、私には馴染みのなかったマンガを実際に読むことで、何が面白いのかとどうして嫌厭していたのかを考察した。また、第四章「SLAM DUNKとNANA」ではマルチメディア戦略において対称的だった2つの作品を取り上げて、マンガでしか表現できない面白さについての考察をした。
 終章「ユニセックス化と細分化が進むマンガ」では、ユニセックス化と多様化が進むマンガ業界の現状に触れ、化学融合が起こるであろう今後のマンガの発展の可能性について言及している。

目次
序章  マンガの面白さを論じる不毛さ
第一章 少女マンガの歴史
第二章 私にとって面白いマンガとその分類
第三章 他者にとって面白いマンガとその分類
第四章 SLAM  DUNKとNANA
終章  ユニセックス化と細分化が進むマンガ

参考文献一覧

本文
序章 マンガの面白さを論じる不毛さ

 最初から論文のタイトルに逆らうことになるのだが、マンガの面白さを論じることは不毛である。なぜならどんな理由を付けようが、「面白いものは面白いし、面白くないものは面白くない」と言うようにマンガの面白さは理論が介入する隙間がないくらい感性に依存するからだ。また、読者の人生経験も面白さに多大な影響を与えている。理由をつけようもない「面白さ」と言う難題に対して私が無理矢理アプローチするなら、マンガの面白さは2つに分類出来ると言うことがスタート地点になるだろう。

1.マンガの面白さとは共感できるかできないかである。
2.マンガの面白さとは斬新さとリアリティーである。

 共感は前述の通り個々の人生経験によって大きく変化する。同じ作品を読んでも、読者の人生経験が違えば異なる部分で感動するだろうし、感動の度合いも異なるだろう。実際に、マンガの面白さについて言及している大塚英志も社会的文脈にマンガを位置付けようとする他のマンガ論に影響される事なく「マンガの面白さ」そのものを語っている部分を見ると、やはり自分の経験と言う個人的な面白さに傾倒しているように思える。
 また読者がマンガに求めることも個人個人で異なっている。絵柄やストーリーの斬新さを求める「通」な読者もいれば、一昔前の漫画のような読みさすさや安らぎを求める読者もいる。他にも理想のヒロイン像や告白シーンを読んでじたばたしたがる読者もいれば、キャラ萌えを追求する読者もいる。それぞれに求める要素が異なっていても、自分にとって「読みやすいマンガ」を求める傾向は変わらないはずだ。 
 そのため本論では、十人十色の感動をまとめあげる作業ではなく、自分自身が少女マンガを読んで生まれ育ち、その中で培った感動を表現すると言う試みをしていきたいと思う。自分の人生と向き合い、自分自身がマンガに求める嗜好を理解した上で、私が思うマンガの7つの面白さを語ろうと思う。同時に私とマンガの関わりの履歴も記載することで、マンガの面白さと人生経験の相関関係も表現できればと思っている。
 
 まずは私が影響を受けた少女マンガが、少女マンガ界においてどのような位置付けにあるかを確認するために、第一章では手塚治虫以降の少女マンガ誌にざっと目を通したいと思う。

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彩音
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