かみさま。
「神様っているんだね」
「もうここは妥協しようって思った一文に限って、辛辣な戻しが来る」
「どうにも仕方なく見逃した一文に限って、いつまでも納得できずに残る」
「やっぱり神様は見ているんだね。編集の神様」
そう言ったのは、誰だったっけ。妥協したくない。ギリギリまで抗いたい。そう思って仕事をしていても、本当に抗えない現実(公開日やコスト、人の気持ち)には負けてしまう。そんな近頃だった。
その朝。いつもどおり親友がくれたマグにコーヒーを淹れ、自分のデスクでニュースサイトを見ていた。私は毎朝、仕事のはじめの一時間を情報収集にあてる。先日の席替えで私の席は窓際になった。開けた窓からは、季節が変わったことを知らせる風。
(神様か)
神様。私はよく、「ねえ、神様」って思う。なんにもなくても、例えば雲の具合がいい感じだったり、小学生たちの帰り道に遭遇したりなんかすると、もれなくそう思う。「どうか」って言葉も好きだ。
幼いころ、真言宗の祖母に般若心経を覚えさせられた。でも小学校まではミッション系で、イエス様やマリア様に祈りを捧げた身だ。今の私が呼ぶ「神様」が、一体どの神様のことかは私にだって分からない。でも、どちらかといえばきっと後者だ。聖女だとはいえないけど。
前の晩にふと思いつき化粧ポーチに入れてきた“おめだい”を取り出し、デスクに置く。それは私の親指の腹ほどの小ささで、けれど、どんな攻撃も跳ね返してきたような錆がある。
(神様がいるのなら、果たして私は編集以外の職に就いただろうか)
おめだいについていた水色のリボンは、今はもう黒ずんでいる。
(私は、今ここでこうしてキーボードを叩いたか)
(私は、たった一つの単語を漢字にするかひらがなにするかで悩んだか)
(私は、後輩のメール文の言葉づかいに病的ともいえる細かい指摘をしたか)
(私は、言葉が言葉であることの、まさにこの幸福を知ったか)
おめだいは、決して光りっこない。
神様はいない。
けれど私は、デスクに置いたおめだいを、デスクの上でも常に視界に入る場所に飾った。
神様はいな、くもない、かもしれない。
いずれにせよ。今日もまた悶々としながら向き合うしかないのだ。たった一文字に、一単語に、一文に、一記事に。