獅子の仔
先週、母さんが入院した。
地元ではけっこう大きめの病院で、隣の県で内科医をしている叔父さんの紹介だった。脳梗塞だった。
本人は病床で迎えた母さんの誕生日。症状がやわらいで、やっと普段通り話せるようになった母さんを見舞うと、ベッド傍の椅子に座る私を見て、母さんが笑った。
「え、何がおかしいの? 」
せっかく仕事を休んでまで帰省して見舞いに来たのに。思ったよりも元気そうだし、何もしていないのに笑われるのは心外だった。窓の外は、雨上がりの湿気った空気で充満している。夏らしい、青く高い空。
まだくつくつと笑っている母さんに視線を戻すと、なぜか少し涙目だった。ちょっと、ぎょっとした。別に泣いているところを見るのは初めてではなかったけれど。
母さんは、私の前では特によく泣く人だった。
「私、自分の誕生日を病院のベッドで過ごすの、二回めなのよ」
と言いながら今度はどこか嬉しげな母さんの、言いたいことが分からない。
「そんなことあったっけ? いつ? 」
私の記憶の中では、母さんが入院するのはこれが初めてだ。たぶん、私が生まれる前だろうなと思いながらも訊ねる。
母さんは、ほんのすこしもったいぶって、
「あなたがお腹にいるって分かった時よ」
って、答えた。
「ある日突然出血してね、びっくりして病院に来たら、あなたがお腹にいるって分かったの。でも、その時、あなたの心臓の音が聞こえないってお医者さんに言われて。病院のベッドで泣いてたのよ、私」
嬉しそうに、愛おしそうに、悲しそうに笑う目の前の母さんの腹を見た。このお腹の中にいたんだな、私。なんてことを、当然なんだけど、それでもやっぱり感動というか、意外な気持ちで考えた。いつからか、私は母さんを呼ぶときには、母さんの学生時代のあだ名で呼ぶようになった。この人から、“母親”というポジションを奪ったのは私だ。
「そう」
「そうなの」
「……その時、痛かった? 」
「体はまったく痛くなかったわ。でも、あなたが無事に生まれてきてくれるか不安で、怖かった」
思い出したのか、また涙を浮かべ始めた母さんにティッシュを渡してやる。
「それで、どうしてさっきあんなに笑っていたの」
なんとなく気まずい気持ちになりながら、また訊ねる。
「だって、あの年の私の誕生日に私を入院させた子が、今年の誕生日には私を見舞ってるのよ。おかしいじゃない」
そう言ってまた笑い出した。この人は、ころころと感情が入れかわる。忙しい表情筋だなと思う。
けど。そう言われてしまうと、私もちょっと泣けてしまう。この人はやっぱり私の母親で、この人が腹を痛めて産んだのが私で、それはまぎれもない事実で奇跡なんだなって。実感させられる。感謝だけが溢れてくる。ティッシュを取った。
「早く退院しなよ」
精一杯の、ひと言だった。
「あなたこそ、早く孫に合わせてよね。結婚なんてしたくない、とか言わずに」
結婚に夢を見られないのは、結婚によって幸せそうな両親を見ていないからだ。だって、母さんは、私の前では特によく泣く人だった。
「ねえ、結婚してよかった? 」
「よかったわよ」
即答だった。
「だって、あなたに会えたもの」
「……それだけ? 」
「そう、それだけ」
母さんは、ふふっと笑う。
「それだけで、すべてがよかったわ」
「そう」
「そうなの」
「……早く退院しなよ」
母さんが笑った。