335.りごりの柑橘
「はじまりはこういうものだった」ということを自分から語れることがあるとしたら、”音楽は模倣からはじまるもの”だと思っていることはそのひとつだ。自分の音楽はすべて、今まで音楽を作ってきてくれたたくさんの人たちの礎の上に成り立っている。
音楽を作り始めた15歳から25歳くらいまで、自分がつくる音楽に絶大な信頼を持って作り続けてきた。はじめはオリジナル曲を作ったことに対しての”褒め”があって、それで調子に乗って作ってきた成れの果てが今ということは間違いない。ただ、その間「ああでもないこうでもない」と試行錯誤を日々続け、それを表現する能力についても自分なりに鍛錬を積んできたというのはひとつ胸を張れることなのかもしれない、というのは、30歳を過ぎて、最近思えるようになってきたことだ。「自信はあるけど満たされない」だけで今までやってきたように思うし、きっとこれからもそれは変わらない気もする。何でか常に渇いている。それは曲ができる度に砂漠でようやく現れたオアシスのようにひとときの安らぎと快楽をもたらしてくれるんだけど、そこにずっと居続けることはできない。
冒頭の話に戻って、模倣について。自分が作る音楽にはいつだって憧れた音楽の形があった。心や身体を動かされたあまりに多くの音楽が、自分の中にある渇きをより強くした。それはもう今は生きていないレジェンド的なミュージシャンから同年代まで。最近は後輩の世代もあるよ。これからさらにずっとこの砂漠が広がっていくのかとは、思わないようにしている。見えている範囲内の景色の中にもあまりに魅力的なものが多すぎる。もはやにわか雨では安堵すらできないほどに。
どんどん真似っこしたらいい、と思う。
オリジナリティというものは長い時間をかけて身についていくものだと思っている。
歌い方はずっと変わり続けている。
「こんな風に歌えたら」
という表現方法についての戦いもある。
今までいろんな人の歌い方を真似っこして録音して修正してきた。
あらゆる人の歌い方や発音方法が、自分の中には今は引き出しとしてある。
歌詞やリズム、メロディーも。
音楽的教養がないので人にはあまり説明できないかもしれないけど、自分の中には、「この人のこの部分にはニョホホwとします」というところがたくさん積み重なっていて、だからそれは果てしない砂漠の中でも時に補給できる水分として歩き続けることができた。リスナーの立場である人も、好きなアーティストがいれば、わかってくれるでしょう。
2021年にスガシカオさんのライブツアー新潟編でのオープニングアクトに選んでもらって、その頃から、後輩のことを考えることが増えた。
自分もそういう機会を作れるようになりたい、と思うようになって、でもなかなか難しいです。別に売れてるわけじゃないし。
ただ、自分の境遇が恵まれていないわけでは決してない。
むしろとても幸福な環境で歌わせてもらってます。
んで、立場的に難しいわけだけど、この前、「とりあえずやってみよう」の精神で、自分のライブにオープニングアクトを入れることにした。
8月21日メイプルハウスでのライブで、セキバアサカちゃんが急遽にも関わらず(約2週間前)快諾してくれた。
彼女とは数年前にCONNECTEDというイベントではじめて共演して、そのライブの打ち上げでいろんな話をしたことがある。
この日、彼女は20分のステージの中で、自分からのオファーを受けてからの間に作ったという新曲を披露してくれた。
それがとても嬉しかった。
20代の頃、たくさんライブをして、ライブをする度に共演者に触発されてたくさん曲を作った。ライブを観に行ったらまたとんでもない触発を受けて、それで曲を作った。早く帰ってこの感覚を形に残したかった。音楽は目に見えないけれど、確かに感触があって、それはあるとき偶然やら積み重ねやら、ちょっとした弾みで曲になって、その快楽は、生きててよかったと思えるレベル。
だけどそのオアシスには長居できない(2度目)。
そしてまたいくつもの夜を経て、いくつもの出会いや別れを経て、そうした先に、削り取られたり、もこって堆積したり、また削られたりしながら、はじめ、ポッと灯っていた感性、つまりオリジナリティのかけらが、やがて芯を持ち、輪郭を作り、脱皮したての成虫みたいな柔らかさで、自分というものが出来上がってくるのだと思っています。
たくさんの遺伝子によって生まれたので、その柔らかさからもっと変わっていけるものだと思います。
苦しい時はたくさんあるんだけども、もはや苦しくもない。
この成虫の身体はあまりに柔軟に適応し過ぎて水中だって呼吸できるようにエラまで身につけてしまった。
自分はまだまだ全然これからだ、と思っているけれども、
後輩たちはもっとこれからたくさんの刺激を柔らかく吸収していくことができるのかと思うと、うらやましくもあり、奮い立ちもし、それでも彼らが時代の波に飲まれず、自分はある時に現れるオアシスのひとつであれたらいいなとも思いながら、いつからか硬くなってしまった踵をさすりながら思うのでした。
好きなものをたくさん愛し、たくさん真似したり反面教師にして、素晴らしい音楽を聴かせてもらえますように。
そして演奏できる場所がずっと文化の土壌であり続けられますように。