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政権交代で米国は変われるのか
トランプ大統領の勝利が見込まれる中、米国のみならず、日本の保守層も俄かに盛り上がっている。しかし、祝うのはまだ早い。それは単に投票日以降に選挙結果が覆る可能性があるだけの話ではない。それはなぜかという話を今回書きたいからこそ、前回の記事を書いておいたのである。前回の記事ではシャルル・マーリク博士の国連での演説を基に、共産主義的な思考と真の意味での平和との互換性について検討した。簡単に振り返ると、あからさまに共産主義を標榜する国家が危険であることは言うまでもないのであるが、そのような国家に対し軍事的な防衛手段を用意しただけでは到底不十分であるという話である。それで、1949年当時の西側諸国は、共産主義の東側諸国を軍事的脅威としては見ていたけれど、脅威の本質を今ひとつ理解しておらず、結局は同じ穴の狢となるべくして墓穴を掘っていたのであった。
マーリク博士が言うように1949年の段階ですでに「西側諸国民の生き様は、多くの側面でゾッとするほど物質主義的」であったのは前回の記事で紹介したところである。その結果がどうなったのかを意識しておくと、今回の話の本題がわかりやすいので、少し小噺を。
時は2009年。アフガニスタンを占領していたNATOの「国際治安支援部隊」の司令官に就任した米国陸軍のスタンリー・マクリスタル大将は、就任早々の7月2日「改訂版戦術指令」を発出し、その一部は数日で機密解除された。東アジアでは故事を引いて、貪小失大(小利を貪りて大利を失う)などと言うが、大将曰く、タリバンを倒した数で勝敗が決まるのではなく、地元民がどうなるかが鍵になる。そして小手先の戦術で勝利しても対極的な戦略で敗北するというような罠に掛かってはならないとして、このように警告した。
タリバンは軍事的に我々を打ち負かすことはできない。しかし、我々は自滅する可能性がある。
これは言い換えれば、当時米軍が積極的に推進していたFDO戦略である、戦略的コミニュケーション(SC)の重要性を力説していると言えよう。しかし、周知の通り米国は最終的に白旗ならぬ虹旗を掲げた挙句、最も不格好な形式でアフガニスタンから撤退することになった。
したがって、アフガニスタンにおける米軍は戦略的コミニュケーションには失敗したと理解できる。そこでマクリスタル大将は、「これは法律や道徳の問題であると同時に、包括的な作戦上の問題でもある」と述べていたが、私は敢えて同じコインの裏側から論じたいと思う。つまり、米国が斯くも無様な撤退をするに至ったのは軍事作戦上の問題であると同時に、法律や道徳の問題でもあったのではないか。米国を筆頭とした国際治安支援部隊こと多国籍軍が「失う」ことができる程の「大衆の支持」を受けていたとは到底思えない。しかし、一方でタリバンは「大衆の支持を失うこと」なく国難を乗り切ったのである。この点は、我が日本の戦後の経過とは異なるのであって、遺憾ながらアフガニスタンの方が日本より立派だと認めざるを得ない。
米国の興亡
米国という国がその成り立ちからして、本質的に無神論的なのかというと、そんなことは決してない。米国というのはそもそも州の連合なのであって、18世紀末に憲法が制定される前から、神に対する「冒涜」(blasphemy)を法律で規制する州はあったし、そのような法律のうちいくつかは、現存しているのである。アメリカ合衆国憲法修正第1条は本来的に連邦議会が合衆国の国教を樹立するが如きを禁じているのであって、連邦を構成する各州が世俗的であることを強制するものではなかった。しかし、20世紀になると最高裁の判決を皮切りに連邦政府だけでなく、各州も世俗的でなければならないかのような言説が支配的になった。21世紀になった今、その弊害はいよいよ深刻になっているといえよう。
この間の歴史をもう少し深掘りしてみよう。現代の米国の「建国の父」とされるような人達は、少なからず宗教的信念に基づいて欧州から移住してきた人達、あるいはその風潮が色濃い家庭で育った人達だと言える。その信念はプロテスタントであるとはいえども、キリスト教的であり、一神教的であった。19世紀後半になると南北戦争が勃発したが、結局は北部が南部を制して現代の米国の姿になったわけである。ここで重要なのは、南北戦争は単なる内戦でもないし、奴隷解放の戦いでもないということである。米国において、このように一方の勢力が武力でもう一方の勢力を抑圧して黙らせることを団結と呼ぶようになったのはこの時からではないだろうか。それに加えて個人の自由や世俗的な市民意識が米国の國體に組み込まれたというわけである。つまりこれ以降の米国はこれ以前の米国とは、違う性質の国だということだ。この頃の米国では南と北では産業の形態が異なっていて、北部はかなりの勢いで工業化していく最中であったのに対し、南部は農業が産業を支えていた。このように北部が勝利して再出発した「新生」米国は、北部の工業化が南部にも波及し、全米が経済的に大きく発展することになった。
しかし、米国は1世紀も経たないうちに「ゾッとするほど物質主義的」な文明となり、第二次世界大戦を戦い、日本に原爆を落として東側諸国との冷戦に突入していった。米国の国力が絶頂を迎えたのは20世紀半ばのこの時期であろう。米国民は無神論への信仰に影響されて、物質的成功や世俗主義などの価値観への傾注を強めていく。米国の世俗主義はこの頃から教条主義的で硬直したものへと変質していった。伝統的な社会構造が個人主義と消費主義からの圧力に耐えきれず、崩壊し始めた。
20世紀の終盤に、ソ連の崩壊で冷戦が終結すると、米国はいよいよ21世紀の姿になっていく。20世紀初頭に国民を統合していた自由という概念は制御不能なほど暴走し、アイデンティティと自己表現の主張が如何なる理性の介入も許さないという枠組の社会が形成された。当然ながら社会の結束は地に落ちて、外部に敵を見出さなければ国として纏まるのも困難な状態に陥った。2010年代には大企業と進歩派の結託が進み、政治が腐敗した。アサビーヤ論的には、こうなるともはや「王朝」の交代は時間の問題である。コンスタンティン・フォン・ホフマイスターの著書「秘教的トランプ主義」では、オスヴァルト・シュペングラーの「西洋の没落」を参照して、トランプ大統領を文明の衰退期における指導者として描いている。曰く、トランプ大統領はファウスト的精神を体現し、文明の再生を目指す指導者なのだという。このような見方をしても、米国を中心とする西側諸国が転換期を迎えていることは依然疑いの余地がない。なぜなら、このような指導者は、文明の衰退を一時的に食い止めるだけで、周期的な歴史の流れを逆行させるものではないからだ。弱体化した文明は最終的には内紛や征服によって終焉を迎える。しかも、南北戦争以降の米国の國體を体現した強権的な指導者はトランプ大統領ではなく、オバマ大統領だったのではないかとすら思える。そうすると、トランプ大統領とその取り巻きというのは、新たなアサビーヤを持ち込む外部勢力とも言えるし、ワシントンDCの官僚たちの視点からすれば、そのように見えるに違いない。言い換えれば、既存の政治体制(エスタブリッシュメント)に幻滅した米国民が無視できない程の割合で存在していて、彼らの間で新たなアサビーヤが形成されたとも解釈できる。既存勢力のアサビーヤ、すなわち無神論を基底に据える自由民主主義が凋落の一途を辿っていることは間違いない。一方でこれが完全に消滅したわけではないのも事実なのだ。それぞれ自由民主主義の仮面を被った共産主義と伝統主義の道化師たちが、自由民主主義の玉座を巡って椅子取りゲームをするという、全く不愉快な茶番劇を、我々は見せられているに違いない。
すると、やはり気になるのは、次の王朝がどのような王朝になるのか、である。第一に、それは米国内部から生まれてくるのか、それとも外国勢力に取って代わられるのか。内部から生まれてくるとしたら、それは自立したものなのか、傀儡政権なのか。外国勢力が事実上占領するような形式になるとすれば、どのような国が占領するのか。シナリオはこのように様々であるとしても、やはり既定路線のようなものはあって、それは、米国内の左派が米国を漸近的に新たな国家に作り変えるというものである。前近代的な言い方をすると、王朝が変わっていない風を装いながら実質的に王朝を交代させて国を乗っ取るということである。しかし、いくら王朝が変わっていない風を装うとはいえ、実質的には王朝を交代させるとなれば、新たな王朝には正統性を主張する根拠となる宗教的信念と団結力が必要だ。つまり、米国の左派にも「宗教的信念」らしきものがなければ、彼らのアジェンダは達成できないのである。ここで、「宗教的信念」らしきものというのは、それ自身に「宗教である」という自覚がある必要はない。例えば、共産主義は宗教的献身を求めるから、国家樹立の基盤になり得るし、それがソビエト連邦であった。つまり、無神論を標榜していても「宗教的信念」らしきものがあれば、永続きするかどうかはさておき、一旦は「城塞」(クレムリン)の支配者になれるのだ。
左派の教条
では、米国の左派に見られる「宗教的信念」とは何なのか。前述の「秘教的トランプ主義」でも、「お目覚め系左派」(Woke liberalism)を「宗教的熱意」(religious zealotry)のある存在であると指摘している。確かに「スター・ウォーズ」のような米国の大作が彼らによって捻じ曲げられ、造り変えられようとしているという分析自体は間違っていない。しかし、彼らが信仰しているものが本質的に何なのかという深層の問いに向き合っているとは言えない。
私が思うに、他の文化を理解しようというとき、自分自身が対比できる文化的教養があることが重要になってくる。知らず知らずのうちに相対的な文化観に染まってしまっていると、人は他の文化を公正に評価することができなくなるのではないか。翻って、これは自分自身の属するアサビーヤを評価する時にも深刻な影響をもたらす。つまり、自国の文化の優れた点は何なのか、もしくは欠点は何なのかということを冷静に評価することができなくなってしまう。そうなってしまうと、何を許容したら現状より悪くなるのかも判断できなくなるから、外来のものに対しては、とにかく「エイリアン」(異質、外国の)に感じて拒絶するばかりになる。このような感情を多くの人が抱き、それを基にアサビーヤを形成するならば、それは江戸時代の鎖国より閉鎖的なものだ。たとえトランプ大統領のような指導者を擁立したところで米国の再興は困難になるだろう。
宗教についても同様で、自分の宗教がどのような性質なものなのか理解していなければ、他の宗教を理解するのは大変に困難だ。自由民主主義が無神論的なアサビーヤを押し付けて来ることによる重圧感は、たとえそれを言語化できなくても、多くの人が直感的に感じとることができる。しかし、現代の西洋社会では、これは単なる思想的傾向あるいは偏向なのだとして解釈され、彼らの正統派的慣行の基底にある教条については細かく議論されないのが常である。
無神論的枠組みの中で、如何にして人民に宗教的献身を求めることができるのだろうか。一般論として、宗教の本質は、その宗教において崇拝される神の性質と強い相関関係がある。唯一神を想定した宗教では、神は究極の善と正義を体現するのに対し、多神教では矛盾する価値観を体現する神々が共存するため、そこから導かれる道徳観にも差が出てくる。一神教の社会では客観的な道徳規範が、多神教の社会では主観的な道徳規範が発展する。だから左派の神を知れば、左派を束ねる連帯感の本質が見えてくるというわけだ。
無神論の神々
Man is intrinsically burdened with an incurable hunger for transcendence.
ヴィンチェント・P・ミッチェーリ神父の1971年の著書「無神論の神々」には、このように書かれている。つまり、人間は超越性をどうしても必要とするという重荷を生まれながらにして背負っていて、この性質は人間の本質であるから治療できるようなものではないというわけだ。では、それでも強情にも「私は神を信じていない」と強弁したらどうなるのか。それはある一定の性質の神を否定する行為ではあるが、その根底にある論理構造は、別の性質を持つ新たな偽神を定義した上で、この偽神を崇拝することによって、否定したい神の上位に崇め奉る行為である。西洋では古代ギリシャの時代から「真空嫌悪説」(horror vacui)というのがあって、物理学的にはやや不正確かもしれないが格言のように使われている。ミッチェーリ神父はこの格言を参照しつつ、全知全能の神という無限な存在が完全に不在であるという究極の真空は最も不自然だと説く。更にはドストエフスキーの著書、「悪霊」まで引用してこの点を強調している。要するにドストエフスキーの謂うところの「無限に偉大な存在」を奪われた人間は生きていることすら辛くなるということだ。だからこそ、無神論を唱えることで「生まれる」即席の偽神達は熱狂的に崇拝されなければならないし、さもなければ行き着く先は実存的危機なのである。こうして考えると無神論は一神教よりも多神教に近いのだということがわかる。一神教の聖職者として神を複数形で表現することに違和感があるはずのミッチェーリ神父が本の題名を「無神論の神々」として神を複数形にしたのも当然である。そうすると、道徳よりも儀式が重要になってくるわけで、左派の理解に向けて一歩前進できたことになる。
では、この即席の偽神はどのような「神」なのだろうか。「無神論の神々」を参考に追っていくと、およそ人間自身や、あるいは人間の構築物たる社会などが有力な候補になるようだ。例えば、ニーチェは「神の死」を宣言して、代わりに「超人」という人間の一形態を置いた。マルクスは共産主義社会を神の代わりに置いた。フォイエルバッハやサルトルも人間が体現し得ると彼らが考えた概念を神格化して、結局のところ人間をも神格化しているのである。そうすると、「人間」という種族に属する自分自身も多かれ少なかれ神格化されるのである。その結果、例えばどうなるのかということも紹介しておこう。キリスト教的な文脈で言えば本来的に神に帰属して(1 Corinthians 6:19-20)いた神殿たる自分の体の所有権が、自分自身のところに戻ってくることになる。だから左派というのは「自分の体なのだから、自分の好きにして良いのだ」という主張をあらゆる文脈で真顔で主張する。自殺も然り、性転換も然り、中絶も然りである。あるいは実存主義的に言えば、偽神とはいえども「無神論の神々」を人間が生み出しているのだから、視野を狭くすれば「実存は本質に先立つ」ような感じでもある。
暗黒の時代に突入しつつある米国
無神論、唯物論、そして実存主義など現代の米国はリベラルな価値観が支配するようになっている。2024年の選挙はどうやらトランプ大統領の勝利で着地しそうであるが、米国を支配する根本的な世界観はそれで覆るようなものではない。振り返れば1世紀前の1920年代もリベラルな風潮が強い時代であった。その後に訪れたのは大恐慌と第二次世界大戦である。しかも恐ろしいのはそのような状況下で現れた愛国感情のようなものは非常に表面的で、大局的には方向性が変わったわけではなかった。結果的には60年代の公民権運動の煽りで伝統軽視の流れは一層加速した。70年代には性規範が本格的に解体され始め、社会の下層部から家族が崩壊して行った。この辺りで立ち止まって反省しておけば、米国がここまで凋落することもなかったのだろうけれど、80年代はどちらかというと消費主義が拡大して唯物論がさらに浸透した時期だった。日本ではバブル崩壊を迎え、以降の若者は唯物論的世界の限界を感じている部分もあるが、米国の場合は2000年代までこの流れが続いて行ったわけである。だからこそ2001年と2008年に全米を震撼させる事件が起きても、方向性を見直すことができなかったのだ。2010年代半ばになると社会の混乱が無視できない水準になり、流石に付き合いきれなくなった保守層と、そのまま突き進みたいリベラル派との間で国家が分断し始めた。この分断はトランプ政権でもバイデン政権でも広がる一方だった。
ここ百年の歴史を見てわかることは、米国の保守から出てくる政治家は、根本的な問題にまるで対処できていない。問題は国の内部にあるのに、どうも海の向こうの地政学的問題や移民問題にばかり気を取られている。そうすると今回の大統領選で決まるのは目先の政策というより、「超人間主義」に突入するのかどうか、あるいは米国人は当面の間は人間であり続けるのかどうかである。その点、人口増大や火星移住を唱えてトランプ大統領を支持しながらも、電気自動車を販売し脳内埋め込み型装置を開発するイーロン・マスク氏の用意周到さには感心せざるを得ないのである。今回の大統領選で見えてくる物質的な影響は辛うじて第三次世界大戦を回避したということであろう。それ以上の変化が起こるためには、第2次トランプ政権が第1次の時より遥かに強力かつ強引な政権運営をするしかなかろう。すると左派は例によってナチスだの何だのと悪口をいうが、開き直った態度が取れるかどうか、それによって米国が再興できるかが決まるということだ。