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#61『甲州街道、奥州街道と「街道あれこれ」』

・『甲州街道』
 甲州街道は、日本橋を起点に、内藤新宿から上諏訪まで45宿、総距離は約220kmありました。上諏訪宿の次の宿は、下諏訪宿で、中山道下諏訪宿(29宿)に合流しました。甲州街道が通る地域は山が多く、川を使った荷物の輸送はできませんでした。山越えがしやすい馬(=中馬)が使われ、陸上輸送が発達しました。
24宿(猿橋)の「猿橋」(山梨県大月市)は、日本三奇橋に数えられます。防州・岩国(山口県岩国市)の「錦帯橋」、越中新川郡(富山県黒部市)の「愛本橋」ですが、「愛本橋」は現存しないため、その代わりに、日光の「神橋」、祖谷(徳島県三好市)の「かずら橋」などが加えられています。
39宿(甲府柳町)は、古くから商業が盛んな町で、甲府産の綿やぶどうが江戸まで運ばれていました。また、甲州善光寺もよく知られた名所の一つでした。
40宿(韮崎)は、陸路と富士川の交通の要所になっていました。また、牛馬の飼育も盛んで、荷物の運搬において重要な役割を果たしていました。

・『奥州街道』
 奥州街道は、日光街道の17宿(宇都宮)から1宿(白沢)から9宿(白坂)を経て白河に至る街道です。日本橋を起点にすると総距離は、約190kmになります。白河は奥州(東北地方)の入り口にあたり、大名や商人、旅人など多くが行き交う主要な街道の一つです。白河より先の主な街道は、仙台に至る「仙台道」(宮城県)、青森の(三厩宿=みんまや)に至る街道、更に海を渡って(蝦夷函館)に至る街道が続いていました。江戸に向かう東北地方の参勤交代の大名は、国を出て最初に目指す場所が白河でした。
五街道以外の「脇街道」については、改めて紹介させていただきます。

・「街道あれこれ」
・「一里塚」
 大きな道路の側に一里(約四km)ごとに旅人たちの目印として設けられた塚(土盛り)である。塚の側に標識を立てたり、木陰で休めるような榎の木が植えられていることが多かった。
・「道標」
 旅人に、目的地までの距離や方向を示すための標識である。石の標識で、道端、街道の分かれ道、町中の表通りの交差点、山中、峠などに設置されていた。
・「棒鼻」
 宿場の境界に立てられた棒杭のことである。宿場の出入り口を示していたことからそう呼ばれていた。
・「追分灯篭」
 追分は、本来、牛馬を追い、分ける場所意味であった。そこから街道の分岐点を示すようになった。分かれ道の目印に灯篭を使うことが多かったため、そのように呼ばれた。
・「国境の棒示杭」
 国の国境に建てられた、高い木の杭の標識のことである。街道の宿場の境いや距離の基準を示す旅人には重要な標識であった。
・「松並木」
 主要な街道は、幕府により整備や管理が行われていた。松並木は、夏は木陰をつくり、冬は風から旅人を守る大切や役割があった。場所や植生により、松だけでなく、杉、檜、榎、樅、桜なども植えられた。
 *今回は、「宿場」、「問屋場」、「旅籠」など取り上げることができませんでした。機会を見て取り上げて見たいと思います。

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