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#63『五街道以外の「脇街道」』Vol.2

11「伊賀街道」
 「伊賀越奈良街道」とも呼ばれた。津(三重県)から長野峠を越えて上野(三重県)に至る。近畿地方などから伊勢神宮にお参りに行く人が多く利用した他、さまざまな生活物資が運ばれる重要な街道でもあった。
12「熊野街道」
 熊野三山(和歌山県)の熊野本宮神社・熊野速玉大社・熊野那智大社へのお参りのため、摂津(大阪府)から紀州(和歌山県)を経て熊野に通じた街道。街道沿いには九十九王子と言われる多数の神社がある。熊野古道のひとつとして世界遺産にも登録されている。
13「伊勢街道」
 「東海道」の日永の追分で分かれ、伊勢に至る街道。伊勢神宮にお参りするために整備された。伊勢神宮に通じる道は、他にも「伊勢本街道」、「参宮街道」などがあり、まとめて「伊勢参宮街道」とも呼ばれた。伊勢神宮は、古代から八百万の神々が集まる神聖な場所とされてきた。江戸時代には一生に一度お参りすることが願いであり、人生の一つの目標ともされた。
14「山陰道」
 京から丹後(京都府)、丹波(兵庫県)、因幡(鳥取県)、出雲(島根県)を経て冠山山地の西を抜け、小郡(山口県)で「山陽街道」と合流する。山陰地域の大名たちが利用したことから発展した。
15「讃岐街道」
 四国の讃岐(香川県)に通じる街道をまとめて「讃岐街道」と呼んだ。讃岐の金毘羅宮は、こんぴらさんと呼ばれ、江戸時代の人々にとっては、伊勢参りに次ぐ人気があった。
16「松山街道」
 四国の土佐(高知県)と伊予(愛媛県)を結ぶ重要な街道であった。さまざまな物資の輸送だけでなく、文化交流でも重要な役割を果たした。「土佐街道」とも呼ばれ、岩崎弥太郎やジョン万次郎もこの道を利用したと言われている。
17「山陽道」
 大坂から西宮(兵庫県)、姫路(兵庫県)、岡山(岡山県)、尾道(広島県)、小郡(山口県)を経て下関(山口県)に至る街道で、瀬戸内海側を通る道。五街道に次ぐ大きな街道であった。道幅も広く二間半(約4.5m)あった。「西国道」とも呼ばれた。下関からさらに関門海峡を越えて小倉(福岡県)まで通じた。江戸と長崎とを結ぶ街道でもあり、諸国大名の参勤交代や長崎奉行、幕府巡検使の往来にも利用された。また、朝鮮通信使なども瀬戸内海の航行と合わせて利用された。
18「石見街道」
 幕府によって開発が進められた石見銀山(島根県)の中心である大森から銀や銀鉱石を港に運ぶために開発整備された街道。日本海側へは「鞆ヶ浦道」、「温泉津沖泊道」があり、瀬戸内海へは「尾道道」、「笠岡道」があった。
19「日向街道」
 九州の熊本から日向・延岡(宮崎県)に至る街道で、「日向往還」とも呼ばれた。参勤交代でも多く利用されたが、「民の道」の名称でも呼ばれ、生活用品を運ぶ重要な街道でもあった。
20「薩摩街道」
 山家宿(福岡県)から鹿児島県まで続く街道で、「鹿児島街道」とも呼ばれた。薩摩藩主島津斉彬の養女の篤姫が1853年将軍家(徳川家定)へ嫁ぐときこの街道が使われた。
21「豊後街道」
 熊本から阿蘇、久住を経て豊後・鶴崎(大分県)を結んだ。熊本藩の初代藩主・加藤清正が初めて肥後(熊本県)入りした時通ったとされている。その後、清正により政治経済、軍事における重要なルートと位置づけられ、整備が行われた。熊本から大坂・江戸に向かう際、「豊後街道」で九州を横断し、鶴崎港から瀬戸内海を航行して大阪に向かう最短のルートでもあった。
22「長崎街道」
 鎖国を行っていた時代の長崎は外国との交易の唯一の場所であった。小倉(福岡県)と長崎を結ぶこの街道は、江戸と長崎を結ぶ重要な道であり、幕府も街道整備に努めた。諸国の大名の参勤交代、長崎奉行の交代、オランダ人の将軍拝謁、オランダや中国との交易品を運ぶ道としても使われた。
#64では、道の最後「海の街道」を取り上げて見たいと思います。

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