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【本文無料】Sustainability拾遺集(04)正方形座標系(Square Coordinate System)や立方体座標系(Cube Coordinate System)の世界から「色即是空空即是色の境地」へ?

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21世紀に入ってから「党派的」「利他的」「規範的」などの次元で構成される伝統的集団主義の限界が目立つ様になる一方、それを「不偏的」「利己的」「逸脱的」などの次元で構成される自由主義をどう組み込む形で再建するのが最適解か全く見出せない状態が続いています。まずは問題を扱う為の座標系自体を構築しないといけません。今回の投稿がその最初の一歩になれば嬉しい限りですが、まだまだ予断を許さない状況と申せましょう。

正方形座標系(Square Coordinate System)と立方体座標系(Cube Coordinate System)

さて「文字情報をベクトル集合化し、その出現頻度と条件付同時出現分布から分布意味論的座標系を構築する」だけのNLP(Natural Language processing=自然言語処理)から出たtransformerの様なLLM(Large Language Model=大規模言語モデル)に、意外にも数学の方程式を解く様な高度な問題解決能力がそれなりに備わってる事が明らかとなり、2020年代を騒がせる「人工知能業界のコペルニクス的転回」が勃発。21世紀には人文系科学の分野すら、この様な多変量解析技術(特に分布意味論的座標系における条件付同時出現分布)への理解が必須になると予測してみた訳ですが、実践は中々難しいものです。例えば以下の投稿から発展させた以下の図。

とりあえず「集団主義」を極北、「自由主義」を極南と置き「政治的(Political)次元」「経済的(Economic)次元」「道徳的(Ethical)次元」の三次元を切ってみました。それぞれの対蹠を中心とする価値体系は全ての「元=要素」を共有しつつ正反対の価値観を構築。全体としてある種の二重球面座標系が編成されます。

  • そう、あたかも隣接して栄た古代ペルシャ文明と古代インド文明がそれぞれ反対に、すなわち前者がアスラ神族を主神としディーバ神族を対峙する悪神とする神話体系を、後者が逆に「ディーバ神族主神としアスラ神族を対峙する悪神とする神話体系」をした)がそれぞれ正反対の神話体系を構築して共に栄えた様に。

ところが「カンブリア爆発期(5億4200万年前~5億3000万年前)に生物が授かった視覚と視覚情報を処理する脊髄の発展型」で物を考える人間の認識上の限界から、我々は、かかる「二重球面座標系」を殆ど「二次元の場合」あるいは「三次元の場合」あるいは統計的にしか捉える事が出来のです。

このうち二次元版(正方形座標系)は上掲の様に「集団対する個人」概念と「集団対する個人」概念の対峙として比較的容易にイメージ可能なのですが、三次元版(立方体座標系)の方は中々の難物。

というのも、どうやらこの問題に一般解は存在せず「それぞれのサイズの部分集合ごとの最適解」を組み合わせる形でしか近似値にすら辿り着けない事が分かってきたからです。

それぞれの集団の「身の丈」に合わせた幸福の集合体としての社会?

それでは「党派的」「利他的」「規範的」などの次元で構成される伝統的集団主義と「不偏的」「利己的」「逸脱的」などの次元で構成される自由主義
互いに照応させる集団のサイズ=身の丈に目を向けてみましょう。

最小サイズ「絶対個人」

①もちろん社会を構成する「身の丈」の最小サイズは個人であり、これはこれまでの投稿で述べてきた「全体に対して十分小さい」泡沫事象の概念に対応します。

  • 1日における24分

  • 1時間(60分)における1分

  • 1分(60秒)における1秒

  • 地球全体に対する直径約670km前後(一人の運転手が自動車で1日で進める距離)、半径335km前後(鉄道やバスや自動車で移動し、現地でそれなりに有意義な時間を過ごして日帰りで戻って来れる距離。一般的なサラリーマンの通勤限界)の地域

人間関係のサイズでいうとどれくらいでしょうか。状況にもよりますが、脳の機能の限界から「人間集団が直接的コミュニティを構築可能なのは150人まで」と見積もるダンパー数基準によれば…

  • 約5人…親密な友人や家族など最も親しい関係を維持できる人数。

  • 約15人…「親しい友人関係」。日常的に連絡を取る近しい関係の人々の人数。

  • 約50人…「良い友人」。親しい付き合いはあるが、やや距離のある友人達の人数。

  • 約150人…「知人レベル」。定期的な接触があるが、深くはない人々の集まりの人数。

他にもさらに関係性が希薄な500人とか1500人といった「顔を見ればわかる程度の知人」レベルも存在しますが、とにかく集団主義(上掲の図における極北的価値観)と個人主義(上掲の図における極南的価値観)の間に葛藤が全く起こらないのは「他人と完全に隔絶した個人(絶対個人)」だけで、人間が集団で暮らすのを前提とした生物である以上、その状態はただ単に理論上存在するだけに留まると申せましょう。

  • この様な形で科学実証主義的アプローチが「絶対個人」概念を外測化し、観測可能範囲外に追いやる一方、それを「修行者が凡百の煩悩を振り払って到達を目指す理想像」に置くのが宗教の領域といえよう。

最大サイズ「絶対世界」

一方「絶対個人」の真逆に位置する最大サイズは閉世界仮説(Closed World Assumption)によって「外側は存在しない」と宣言された内側全て、すなわち「世界そのもの=絶対世界」となります。このサイズが単一単位となって集団主義と個人主義が直接対峙するなら「片や消し」のバトルロイヤル(極南的価値観)を免れる事が出来ませんが、幸にして実際の世界は未だかつてその様な単一状態に陥った事がなく、また近い将来にそういう状態に到達する見込みもありません。従ってこの状態もまたただ単に理論上だけ存在するといえましょう。

  • 科学実証主義的アプローチはこの様な形で「絶対世界」概念をも外測化し、観測可能範囲外に追いやる。計算上それは無限遠点で「絶対個人」概念と交わる筈なのだが、あえてかかる「梵天一如」の領域については口を閉ざすのである。。まさしくウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein,1889年-1951年)が「語り得ないものについては沈黙せざるを得ない(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.)」と語った境地。

そして「色即是空空即是色の境地」へ

従って実際の生活の中で人間が採用する「各集団の身の丈」は全て上掲の「絶対個人」と「絶対世界」の中間に分布するばかりか、それぞれの「全体観点から眺めた個別としての主体」と「個別観点から眺めた個としての主体」の相互掣肘を通じてメカニック的あるいはマシニック的に結ばれ仏教でいう「縁(えにし)の世界」を構成するのです。かくして「個人」「家族」「交流網」「企業」「国家制度」といった集団単位が登場してくる訳ですが、その多くが泡沫サイズに転落して視野外に消えたとしても本当に消えたとは限らず、またとある集団が突如現れた様に見えても実際にはその多くが泡沫サイズから昇格したに過ぎず、またどれかの集団が巨大化して世界を被覆し尽くした様に見えても実際に被覆し尽くした訳ではなく、この様な世界の有り様全体を俯瞰して仏教は「色即是空空即是色の境地」と呼んだ訳ですね。もちろん多変量解析などの科学実証主義的技術を用いて人類が再現可能な条件付同時出現分布はそのうちほんの一部に過ぎませんが、その作業が難航してきた最大の理由は現実そのものがそんな感じだからに他ならないという次第。

  • メカニック/マシニック…ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年~1995年)とフェリックス・ガタリ(Pierre-Félix Guattari,1930年~1992年)が用いた哲学用語。オリジナルでは「メカニック概念をマシニック概念が超克する」といった用例で使われていたが、ここでは両者はコンピューターにおけるハードウェアとソフトウェアの様に局所的に役割を分担しつつ全体として一つのシステムを構築する存在として描いている。

  • 一方、かかる「ドゥルーズ=ガタリの夢」は「メカニック概念の手が及び難い」SNS社会において実現したとも考えられるが、それが彼らの夢想した様な「薔薇色の未来」ではなかった事は皆さんもご承知の通り。

  • 最近、人工知能アルゴリズム研究の最先端分野で「人工知能をさらに人間に近づける為には何らかの形で身体性を持たせる必要がある」なる議論が活発化しているが、ここでいう「身体性」はこれだけ複雑怪奇な代物という訳である。

まぁ、まだまだ骨組みもいいところですが、最初の叩き台くらいにはなりそうだ? そんな感じでとりあえず以下続報…


とりあえず本文はここまで(3588文字)。「この文章、どうやってまとめたの?」という部分に興味が出てきた方は是非以下をご覧になって下さい。文章量の関係で削除したトピックなども掲載されております。是非お手にとってお確かめ下さい。

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