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定義/「クラス」という概念について2

 これから論じる「クラス」の私の定義は、"内なる集団" である。この大雑把な表現を限定づけるために「個人の内なる集団」としてもイメージとして大きな齟齬はないはずだが、複数の個人にまたがることを想定するため、容易に一面的になってしまう恐れがある。
 そこで「人間の内なる集団」とすると、間違いではないと思うが今度は「人間」のイメージが強くなり、個人にかかわる心理現象を語るには不適切なものになってしまう。
 「内なる」という表現も、個人心理において複数の人間を投影し、その影に影響されるような心理機制が連想されると思われるが、個人を超えるものとして、クラスにおける個人をイメージを操るアテンダントのような媒介者として考えるとしたら、「内なる」には例えば建物について「別室」でイメージされるものと同様に、わかりやすい階層性などないものと考えなければならない。
本論のクラスは、情緒的に時々に、生物の群体のように統一化される心理機制と言ってもいい。ユングの "元型" という概念にならえば、意識が集合化するための鋳型のようなものとも考えられる。個人のフィルターが影響してその立つ視点によって意匠を変えるが、エモーショナルであるためその意匠の視覚化はされない、と考えている。
 日本語でクラスと言えば、一般に学級、階級、レベルなどを表す。本論の「クラス」は、それらの語感を残した集合的現象を表す。つまり、個人の中では、それは子どもにとっての学校のように所与としてあり、また、階級のように広い意味での政治性を持ち、それによって、価値・差別・正義などレベルを表す感情を与えられる。
 それから定義に関して、わかりやすいように思われる「集団」についても、それが何を意味するか考えておく必要がある。
 山根一郎は「一人から仲間へ 社会心理学の散歩」の中で、「二人以上の相互作用システム」とする〈集団〉の一般的な定義に反対する。それでは対人関係=集団になってしまうとして、〈集団〉とは「三人以上の相互作用事態」であると定義する。(市川1996)(注1)
 しかし数にさえこだわらなければ、「規則的持続的相互関係を持つ個体の集合」(広辞苑)として人数についてはあとで考えればよいのではないだろうか。
 例えば、分譲された集合住宅で、区分所有者が二人だった場合、そこで成り立つ管理組合は集団ではないと言えるだろうか。十人程の団体があって、一人減り二人減りして最後に二人が残ってその活動を継続したとしよう。この場合、それは集団だろうか、それとも対人関係だろうか。
 私の持つイメージで定義すれば集団とは、「複数の人間が想定される、理想的には統一を予想させる関係性を持つもの」である。一人であってもかまわない。個人の中にクラスとしての集団が成立する、とする考えだ。(注2)
 とは言え山根の考察は重要である。対面的な二人の間では、観察と行動のフィードバックが機能する主他的態度と、自分の予測、期待や、影を投影する主我的態度とが織り合わされて、相互作用は主に展開すると思われるが、三人以上になれば、その現場にのみ支配されない、クラスの持つ架空的要素が重要になる。二人の場合であっても、その要素こそが集団の萌芽といえるかもしれない。対人関係がテイクオフ(離陸)して集団になる、とでも表現できるだろうか。
 接近的なクラスと集合的なクラスを分けて、わたしはクロス・クラスとクラスター・クラスと仮に呼んだことがある。(「内なる集団」 注3)
 クラスの把握には、そうした規模に基づく差異を見極める必要がある。(注4)ただし、それらが截然と区別できるわけではない。
 また、クラスを観察する上で、いくつかの相が想定できると思う。
 まず、個人の心理で観察される、心が群化して機能する相が上げられる。これは、個人の問題でありながら、社会心理学の学問の中で考えられるべき問題でもあるだろう(注5)。これを、〈社会心理学的な個人心理の相(社会心理学の相)〉と仮に名付ける。
 次に考えられる相は、人格に統一された、その個人の備える文化としての相である。具体的には、郷土心、性心理、階級心、などが上げられる(注6)。これを、〈人格に組み込まれたエトスの相(エトスの相)〉と仮に名付ける。
 最後に考えられる相は、実態的なクラスの相、集合的に観察される相である。これを、〈社会化した心理現象の相(現象の相)〉と仮に名付ける。
 これらの相は、方法的に分割して観察する便宜である。そのまま実態を指し示すと考えられてはならない。同一の現象・同一として把握されるべきクラスという多面体のひとつの面にすぎない。
 いずれにしても、生物の群体をたとえにあげたように、把握されたクラスを純粋な実体とするべきではない。名まえを与えることで現象を扱いやすくするのが、クラスという概念を提示する目的である。

(注)内なる、という表現は適切でないかもしれない。若干の説明を加えたが、個人の心理に係累する、の意味である。それから、社会心理学に関して参考にしている知識はすでに古くなっていると思われるので、現在の学問的到達点を参照する必要がある。(2024)
(注1)実際には「二人以上」とするのは必ずしも一般的ではない。例えば、吉森護による「集団」の項を参照(小川1987)。
(注2)吉森護によれば(小川1987)、「『駅のプラットホームで電車を待っている人の群れ』のような集合」「つまり、単に空間的に接近し同時的に存在するだけの群衆や聴衆とは区別される」。しかし、これは微妙な問題を孕む。そこに集団において観察される物が同様に見出だされる場合がある可能性は、決して低くないからだ。
(注3)先にnoteにアップした文章では、この部分を削除した。
(注4)例えばゲオルク・ジンメルは、集団関連の抽象的形式と具体的形式を区別して次のように述べる。(ジンメル1908)
 「大きな圏は、小さな圏に固有の個人的かつ直接的な団結の代償を、その独特の構成によってつくりだす」
 そこで問題となるのは「この統一をもはや人間と人間との関係としては示さないような法廷」であるとして、この目的のために、役職、代表、集団生活の法規・象徴、組織、社会的な一般概念が生じる。
 「それらはすべて大体においては、集団関連の抽象的な形式として、たんに大きな圏においてのみ純粋かつ十分に形成される。というのも集団関連の具体的な形式は、ある程度拡張すればもはや存続できないからである。それらの合目的性は、無数の社会的な質に分岐しているにしても、究極的には数的な前提にもとづいている。」
 (以上、書体を変更)
 試みに、ここでクラスについて規模に関わる特性を考えてみると、恐らく、一般的にクラスの機能は、ジンメルの区分に対応し規模にしたがって、次のようなものとして現れると思われる。すなわち、規模が小さいほど、団結を目指して、その反応速度は速く、直接的に影響力を持ちその具体性に沿って複雑になる。また、規模が大きいほど、その構成を支えるため、直接性に乏しく具体的な多岐性がなく分かりやすい単一さを持ち、ゆっくりとした不可逆性を持つ。
 再びこれに照応した箇所をジンメルより引用すれば、
 「慣習の独特の拘束力は、国家にとってはあまりにも少なすぎ、個人にとってはあまりにも多すぎる。ところがその内容は、国家にとってあまりにも多すぎ、個人にとってはあまりにも少なすぎる。」(前掲書)
(注5)しかしそれがいつも一定の忘我(エクスタシー)であると言えるにしても、完全な、究極的な、理想的な忘我(エクスタシー)と群への一体化ではないことが重要である(真に継続性のある忘我が見られるのならば、それは二重人格で、他の人格が失われた自我を明確に代行しているはずだ)。DNAが同じでも、環境によって生命の実現が異なることと、その図式は似ている。必ず個人に関わる因子が、群(ここではDNA)を変態(メタモルフェーゼ)させているはずだ。
(注6)これらは、階級意識、性意識、郷土意識、ではない。必要十分に意識化されたそれらは、自我に統率され、ここで観察するべき範囲を基本的には超えているからである。

市川典義他『人のこころ 人のからだ』1996年ミネルヴァ書房
小川一夫他『改訂新版 社会心理学用語辞典』1987年北大路書房
ゲオルク・ジンメル『社会学 社会化の諸形式についての研究』1908年(居安正訳 1994年白水社)

(巻頭の写真は、「日常にツベルクリン注射を‥」2019.11.15より。
日本の集合写真を特集したこのアサヒグラフについて、かなり詳細に紹介されています。


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