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矢崎弾7国力について

ひさしぶりに、神田眞人の名を見てあの不愉快な顔を思いだし、そこから日本の知的資源について考えたので、書き残しておきます。ただしこの文章は神田眞人の官僚としての評価をするのが目的ではありません。
下の記事は神田が2021年財務官当時のものです。ここでのかれの発言が非常に分かりやすかった。

「大学は教育とか研究を独占する存在ではありません。それでも私が一国民として大学に期待するのは、構造変容する産業社会に対応し、厳しい国際競争に生き残れる知的能力や技能を有する人材を育ててくれよ、ということです。また、ポピュリズムが人々を分断し、知性をないがしろにする環境が広がる中で、知的で批判精神を持ち、クリティカルシンキングができる主権者を再生産してほしい。」

まず前半。
「構造変容する産業社会に対応し、厳しい国際競争に生き残れる知的能力や技能を有する人材を育ててくれよ」
①大学は構造変容する産業社会に対応したものでなければならない、②大学が与えるのは知的能力であり技能である、③それらは国際競争に生き残れることを目的とする。
後半。
「知的で批判精神を持ち、クリティカルシンキングができる主権者を再生産してほしい」
④知的な主権者を再生産してほしい、⑤批判精神を持った主権者を再生産してほしい、⑥クリティカルシンキングができる主権者を再生産してほしい。
以上から言えるのは、神田にとって大学は、現に効果のある人材を育成する場所である。
私などが反発を感じるのは、大学をどのようなものにするべきか、という話以前に、そんなふうにわかりやすく目に映る対象として割り切られてはたまらない、ということです。一国民として、というエクスキューズは、ある意味さらに悪質です。それが建て前ではないことを意味するのだから。
大学は教育とか研究を独占する存在ではない、という認識は正しいが、大学は教育や研究の象徴的存在であり、国の関与する最もレベルの高い組織です。その目的とするものが神田の説くような新自由主義のパラダイムの範囲でしかないなら、歴史ある国としてあまりにも惨めです。

評論活動をしていた当時の矢崎弾は一応名の知れた評論家でしたが、その後は紅野敏郎のような文学史研究の権威からは軽んじられ、佐渡の郷土史の一部として細々と語られるだけでした。松田實さんによる評伝も、『佐渡郷土文化』を刊行した山本修之助の子、昨年亡くなられた山本修巳(よしみ)さんの助力があって本にできたそうです。『社会派の文学(新潟県郷土作家叢書2) 』で矢崎のまとまった評伝を書かれた渡辺憲先生も新潟で教師をされていました。こうした民間での研究をノイズとして排除するのはおかしいしその必要もない。もしこうした研究に意味がなかったとしても、そこに知的努力が存在するそのことこそ重要であると私は考えます。佐渡の図書館には郷土史のコーナーがあって簡単に本を抜き取れないほどぎゅーぎゅー詰めになっていた。閉架もあり単に容量不足ということではないでしょうが、国力としての知的資源は、こうしたものの総体であり、見るべきはこのミクロな現場ではないか。ここから世界的な研究が生まれるなどと言うつもりはありません。私がいいたいのは、言わば自己満足で続けられる小さな知的現場に国力の本質があるということです。そうであるなら、大学のとるべき哲学は、その民間の現場にまでネットワークの可能性を持った視野の広さではないか。神田が理想とするような、ある目的をもって制御された組織とは真逆なものを目指すべきではないのか、ということです。

(写真は佐渡市立中央図書館)

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