コレクション①:差別を支える表層のコミュニケーション
(昔書いた雑誌記事を若干書き直したものです。)
「考える」ことは、意味のある場合とそうでない場合がある。あたりまえのことなんだけれども、ふつう、考えることの効果と考えることの愉快は分別されない。考えることは楽しいので、それに溺れて本来の目的を忘れてしまうことがある、ということだ。昔はこういうのを書生論と言った。
「象さんのポットのお笑い実験室」と銘打って明治大学で行なわれたシンポジウムはそのタイトルも「差別用語を考える」。社会的にしっかりと生存し続ける差別の問題と、それをめぐってのマスコミのあり方について「考える」のだと思い、象さんのポット・根本敬・とうじ魔とうじ、といった出演者の顔ぶれに斬新な切り口を期待して行ったのだが、それは完全に裏切られた。根本敬は差別についてあいまいな定義をあたえてお喋りしていたが、ここで私の考える差別は、否定的感情をともなったいわれなき疎外待遇のことである。
さて裏切られたと同行者ともども思ったわけだが、考えてみるとそれはこちらの一方的なかん違いであって、まさに差別問題でもなくマスコミ問題でもない「差別用語を考える」シンポジウムがそこにあっけらかんとして展開されていたのかもしれない。差別やマスコミについて、何か具体的に目的を持って「考える」場所ではなく、それは例えば裏側からマスコミを楽しもうとするような、どこかスノビッシュなシンポジウムではあった。こういったものはいわゆる書生論とは少し違うのだけれども、いかにも明治大学という場所にふさわしい気はする。
当日、もっとも差別問題に近接して発言していたのは、「対論」として組まれた漫画家・根本敬とミュージシャン・とうじ魔とうじであった。とうじ魔とうじは、たまの音楽的産みの親のようにも言われるようだが、紹介ではもっぱら「ウゴウゴルーガ」に出演した(「対決」コーナーの一方であったらしい)ことが強調されていて、そこにもマスコミが好きな主催者の顔がべっ見された。
その対談で出された、被差別対象の存在をおおい隠すようなマスコミなどのあり方への疑問は、(特に新味はないけれど)もっともなところだと誰しも考えるだろう。しかし、つめ隊(ヴォーカルが障害を逆手にシャウトするロック・バンド)などを例にあげて、被差別者はもっとカム・アウトする(登場し闡明する)べきだという根本の発言に私は少し首をかしげた。それは先に述べた、差別とは何かという定義の問題とかかわってくる。
私は、差別はする方の問題にすぎないと考えている。差別そのものは、現状認識とは関係のない根拠のないものである。だから被差別対象との関係を取り返して実際のところを知ろうとする努力が必要である。そのためにつめ隊などがわれわれの蒙をひらいてくれもするであろう。傲慢な態度とは思うが、その限りでは根本の言い分も全く分からないではない。
けれどこの過剰なコミュニケーションへの期待には、私としては気にくわないものがある。結局、他者とのべったりと密着したつきあいの持ち方が、差別の温床ともなっているのではないか、そう思うからだ。
差別の対象にえらばれる多くの人々が、より速やかにイージーにコミュニケートできない、という理由で疎外を受ける。しかし本当のことを言えば、どんな人間でも、より速やかにイージーにコミュニケートできる部分なんてほんの限られた所だけなのだ。だからそこで期待されているコミュニケーションというものは、いかに表層でしかもより濃密に、ということに尽きる。これはテレビの現状と、ぴったりと一致しやしないか。根本のいうカム・アウトしたところで、そこで受け取る側が同様の態度で接しつづける限り、見せ物に終わってしまう可能性が多分にある。様々な問題の提出が、何らかの解決の糸口さえ見出せないままに、次の話題に押し流されてしまう。そこでは考えることが、ただの愉快に終って、目的にとって何の意味をも持たない。そんなことが自然にわれわれの日常茶飯事となっている。
とうじ魔とうじがつめ隊について、「かっこいい」と評価するその真意は別にあるとしても、結局ロックを評するコトバなんてそんなものしかないのか、とうんざりした気持ちにもなる。速やかでイージーな、外側だけのコミュニケーションの伝統が、こんなところにまで貫徹している。 了