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『シャザム!』─子供の頃の傷を忘れられない人へ

 先日、DCエクステンデッド・ユニバース映画の一つの『シャザム!』を見たんですが、これがとってもよかったので、別ブログの方に載せた感想文を転載します。核心には触れていませんが、ある程度踏み込んでネタバレしています。

□『シャザム!』"Shazam!" 2019(WOWOW)
 1974年、ある少年が不思議な空間に魔術師の後継者候補として召喚されるが、そこに封印されていた「七つの大罪」の誘惑に勝てず、現実世界へ戻される。月日がたち現代のフィラデルフィア。幼い頃母とはぐれ孤児になった14歳のビリーは、里親からの家出をくりかえし、新たにグループホームへ迎え入れられる。ホームの養兄弟フレディがいじめられているところを助け、一人地下鉄へ逃げ込むと、いつの間にか不思議な空間に迷い込んでいた。(監督:デヴィッド・F・サンドバーグ 出演:ザッカリー・リーヴァイ、マーク・ストロング、アッシャー・エンジェル、ジャック・ディラン・グレイザー、ジャイモン・フンスー、他)

 映画館では見なかった『シャザム!』をやっと見ました。
 思ったよりもずっと面白かったので「映画館でみればよかった」とちょっとだけ後悔しました。
 魔術師シャザムの後継者に選ばれたビリーは、大人の姿になり、様々な力を手に入れる。そうなると子供ですから、フレディと浮かれまくってアホなことをしまくる。でもその悪ふざけの最中にバスの事故を誘発してしまい、からくも助けるけれども、フレディに責められ、ケンカ別れをしてしまう。
 そこへ、子供時代に拒否された以来、執念で「七つの大罪」の力を手に入れたサデウス(50代くらい)が現れ、ビリーを葬り去ろうとする──というお話です。
 この映画を劇場で見なかった理由の一つは、シャザムに変身したビリーの大人の姿がかっこ悪かったからなんですけど、見てもやっぱりかっこ悪かった。「14歳の少年が思い描くヒーロー」ってことらしく──つまり、ビリーのセンスがいまいちダサかった、ということらしいよ。顔も、え、美少年然としたビリーがこの顔……いまいち納得できない……。いるけど実際。若い頃は紅顔の美少年だったのに「どうしてこうなった」というような人ってね!
 でもこの作品、すごくよくできた子供向けコメディ映画なんですよ。だから、そこら辺も全部笑いに昇華する。小ネタもとても多く、フィラデルフィアを舞台にしているので『ロッキー』のはもちろん、当然『ビッグ』のパロディもあり、'80年代の子供向け映画(『グーニーズ』とか)を彷彿させる雰囲気もある。最近の日本の子供向けアニメなんかでもそうだけど、親世代への配慮というより、作り手が楽しんで小ネタを入れてるんだよね。月並みな言葉ですが、子供も大人も笑って楽しめます。

 とはいえ、本来のテーマは「子供の心の傷」なんですよ。ヒーロー側とヴィラン側の分かれ目のようなものも描いている。
 ビリーは小さい頃はぐれた母を探し求めている。「母がいた」という確かな記憶があるので、「家族がいない」ということを認めたくないんだよね。だから、里親たちや養きょうだいたちにも心を開かない。
 一方ヴィランであるサデウスは、魔術師の候補者に選ばれなかった自分と家族からないがしろにされた自分を重ね合わす。魔術師よりも強大の力を持つことで、自分を認めない父と兄の鼻を明かそうというか、「自分と同じようにないがしろにしたい」と思っている。

 ずっと考えていることがあるんですよ。親にしろ子にしろ、ちゃんとした家族じゃなかったという記憶があるはずなのに、それでも親や子として執着するじゃないですか。もちろん、「修復できるかも」という望みを持ち続けている人もいるでしょうけど、そのための努力をすることもなく、「親子の絆」という言葉への幻想ばかりに執着する人もいる。特に親側ね。サデウスのように「愛されたい」と思いながら生き続けてきた子供だったら、それに囚われる気持ちが根深いというのはわかるんですが、子供を大切にしてこなかった(どころかひどい目に合わせたような)親から、その記憶がすっぱり消えてなくなるというのが、よくわからない、と思ってきたのです。まるで自分がよい親だったかのように振る舞われて、子供側が憮然とする、というような……「この人は、記憶を自分の都合良いものにしている」とか。

 でも最近、気づいたのです。そういう人たちって、自分のことを「親として」あるいは「子として」評価されたいと思っている、と。いい親だったか、あるいはいい子だったか。その評価を下せるのは、「親子」でないとできないんですよね。親がいたからこそ、子が生まれ、子がいるからこそ親なんだから。当たり前だけどね。だから、子に、親に執着する。彼らにしか下せない評価を聞きたくて。いい評価のためには、記憶も捏造するし、洗脳もされたりしてね。
「親子」でしか下せない評価は、確かに特別に見えるけれど、それにどれだけの意味があるのか、と考えると首を傾げざるを得ない。昨今のフィクションの傾向としては、それから脱却しようとしているように思えてなりません。

『シャザム!』のビリーもサデウスも、「子として」の評価に囚われた子供なのです。でも、ビリーは新しいグループホームで出会った人たちと本当の意味での「家族」になろうと決心しますが、サデウスは父と兄に復讐──というより、蔑んだ自分の方が強いということを見せつけるだけで終わってしまう。「子として」の評価に執着するあまり、「七つの大罪」たちに利用されてしまうのです。
「子として」ったって、よく考えればたった二人の人間しか下せない評価なんですよね。しょうもない親から、あるいは子を捨てた親からの評価なんて、全然特別なものじゃない。もちろん、ちゃんとした親だったらものすごく価値ある評価になるでしょうが、どんな親でもそういうものだと思いこんでしまったのがサデウスで、それよりもっと自分を認めてくれる人がこの世界にはたくさんいて、そういう人たちと「家族」のような絆を結ぶことだってできる、と気づけたのがビリーなのです。
 サデウスを演じているマーク・ストロングって私と同世代なんですけど、こんな歳になっても子供の頃の傷は癒やされなかったりするって、ほんとあるんですよね……。そこが切なかったりもしました……。


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