獣のままでいさせて
深夜の長電話が好き。
自分の部屋にこもって親に言えないことをたくさん友達と話す。学生の頃は平気で4〜5時間話して、気付いたら窓の外が明るいなんてことよくあった。
今考えるとよくあんなに話すことがあったなと思う。学校で毎日一緒にいて、放課後も遊んで、家に帰ってからも長電話する。親には「いい加減にしなさい」って怒られて、携帯料金の請求書が届くと再び小言が始まる。
LINEも無料通話できるツールも無かった時は本当に通話料が大変なことになってた。通話時間は一瞬に感じても通話料はちゃんとその分だけ請求されてる。でもその数万円の通話料をなんだかんだ払ってくれた両親には感謝しかない(笑)
今はLINEもその他無料通話アプリも充実してるから気兼ねなく電話できるようになったけど、やっぱりあの答えの出ない(出す必要のない)話を延々として切るタイミングを失ったり、こんな長い時間通話してるなら会って話した方が早かったよねっていう鉄板の会話をするのも全く変わってない。
私の美しい部分も汚い部分もおかしな部分も弱い部分も、大抵の側面を全て晒け出した人との長電話は本当にひとつのセラピー。
「親友」というカテゴリーさえ軽薄なものに感じちゃうほど、近い人。
数少ないそういう人たちのおかげで私は普通に生きていられるんだと思う。否定しない、強制しない。
常に一緒にいるってより、「一緒にいなかった時間」を全く感じさせない人。
午前2時、私たちはどうしてこんなに牙を剥いて生きてるんだろうなあって思った。普通人は年々丸くなっていくものだけど、私の場合はなんでか年々尖っていってる気がして。丸くなれたら楽かなあ、なんて思うこともあるけどやっぱり黙ってるなんて、ルールを守るなんて無理だし、"なんとなく"ってのも出来ない。
初めて会って、パッと少し話してナシだったらどんなに優しくされても絶対にそれが覆ることはないし、でもたまに分からない時はもう一度会ってみたりするけど、結局「分からない」ってのは大抵ナシ。良いなら良いって出会って7秒くらいでソッコー思ってる。
恋愛においては心地良い曖昧な関係(ラベリングできないという意味ね)はあるけど、それは自分と相手の気持ちが同じベクトルに向いてる時にしか成立しないよね。尊敬と信頼がある時。色んな部分の相性が良い時。
例えば「結婚」という縛りナシでずっと好きな人と一緒に生活を続けるには同じ方向を見て、尚且つ尊敬と信頼と相性が必要になってくるんだろうね。
法律じゃなく、尊敬と信頼と相性で一生繋がってられるって最高に美しい事象だと思うな。
今では余計なものを次々に捨てていくスタイルだけど、最初からこんなに判断力と決断力があった訳じゃない。
もしかして結婚を辞めたのを機に、ちょっとだけ人に冷たくなったのかもしれない。自分の身を守るために。
常に最高のものを置いておきたいと思うようになった。余計なものはいらない。余計なものがくっついてるとそれは重りにしかならないもん。
夢中になれない相手が自分のことを好いてくれたとしても、そこで得られる安っぽい安心感やくだらない承認欲求のために人をつなぎとめるってのはなんだかカッコ悪いし、その人にも悪い。時間無駄にしてしまうし。
そんなに寂しくて、人を介してでしか自分のことを好きでいられないなら泥水啜って血吐いてでも努力して揺るがない自己肯定感を得た方がよっぽど生きやすくなると思う。ていうかそんなもので埋められる寂しさなら大したことないし、その寂しさと向き合ってもきっと死ぬことはない。
自己肯定は「孤高」へ繋がるけど、そのままいたら絶対に最後は「ひとりぼっち」になる。
物理的なひとりぼっちってよりは、精神的なひとりぼっち。そっちのがムリ。
周りがみんな彼氏いるから欲しいとかクリスマスだから欲しいとか、結婚適齢期だから婚活してある程度の条件満たした人と早く結婚しなきゃな〜なんて気持ちが湧き起こるのも、多数派でいることの安心感を得るためでしかない。でもその安心感と引き換えにきっと自分の中の「最高に美しい歪な部分」を失っていくんだと思う。
だけどその「最高に美しい歪な部分」を維持するのは本当に苦しくて辛い。だからこそそれを持つ人は最高にカッコいい。
その部分は、誰かにとっては逃れられない強烈な魅力になって、そのまた誰かにはどうしようもない人だと思われるマイナス要素になる。
私はその部分を絶対誰にも削られたくないし、むしろ研いで磨いて獰猛な獣の牙のようにしたいとさえ思う。
自由に振る舞うのと引き換えに失うものは大きいけど、失うだけの価値がある何かになれたり出会えたりしちゃうから人生ってやっぱり上手くできてる気がするんだよね。