悲劇のヒロインぶるのはやめて
もしこのまま死んじゃったら後悔するかな?いや、しないな、と台風の夜に思った。
10月なのに台風なんて、本当に変な気候。
だけど確実に冬は近づいて来ている。夜はもう寒いしコートを着てる人も見かける。
歳を重ねるにつれてどんどん冬が好きになる。
前までは断然夏派だった。
7月に入った途端、浜崎あゆみのJuly 1stだってSigmaのNobody to loveだって聴いてしまうしプールだって海だってお祭りだって行きたかった。
誰かの一夏の思い出に巻き込まれるために。
だけど歳を重ねてからは冬の始まりの方がダンゼン好き。
雰囲気に飲まれちゃう夏。賞味期限の短い「ひと夏の恋」よりも冬はもっと厄介な恋に深く、深く、ハマってしまう気がして好き。ドロドロに溶け合って二人の境目が分からなくなってしまうような抜け出せない恋。
恋愛に限らず何かにハマって抜け出せない感覚って大好き。我を失って何か(または誰か)に没頭するって最高にキモチイイ。
代々木公園や日比谷公園なんかのベンチで寄り添いながらイヤホンを半分こしてラブソング聴いたり、朝方の円山町で虚しさを感じたりする冬。
このまま家に帰らなくていいかな、このまま仕事辞めちゃってもいいかな。このまま死んじゃってもいいかも。
深く、何かに体持ってかれちゃう閉鎖的で孤独な冬が好き。
寂しささえもスパイス。
でもスパイスが多すぎると、味が無くなる。
それはただ寂しさに飲み込まれているだけ。
私は寂しさと苦しさに支配されるのが嫌い。
苦しくなったらさようなら。
ギャンブルはしないの
寂しいことや苦しいことをなるべく避けて生きたい。
苦しいことの果てに、素晴らしいことが待ってる。
耐えてこそ、幸せが待ってる。耐えることは美しい。
そうかもしれない。本来はそうするべきなんだと思う。
でも私には耐えられない。耐えてるうちになんだかバカバカしくなってくる。
苦しみに耐えたら本当にハッピーエンドは待ってる?
その保証ってないし、私はハッピーエンドに縋ることも信じることも出来ない。耐えただけのご褒美はきちんと頂戴したい。
だから今は目の前にある確実な幸福だけを摘んで刹那的に生きてる気がする。
嫌な仕事は続かないし、プライベートは甘くてとろけそうな楽しいことだけでいい。何かこう、どんどん世界を消費していく感じ。
長期計画なんて立てられない。たぶんこれはきっと遠くの幸せにベットできないから。
もっと言うと私は人と信頼関係を築くのが苦手で。
正直何をもって「信頼している」と言えるのか微妙なところだけど、ふとした時に「あ、私この人のこと全く信頼してないや」って気づいてしまう時がある。
言いたくても言えない、頼りたいけど頼れない。
自分の心と体を完璧に預けられない。
何か一つの物をずっと信じ続けることが苦手。信じて待つことが、苦手。
これはきっと自分が裏切られた時のための予防線なんだよね。実際に裏切られた時に「ああ、やっぱりね。そうだと思った、信頼しなくてよかった」って言えるように。
でも予防線を張るってことは、その人が後々自分を裏切るであろうと思ってるってこと。そもそも自分から相手のことを振っている。
まず自分が信用しないと相手からも信用してもらえない。そんなことは頭では分かっているんだけど完全に負のスパイラルにハマってる。抜け出せる気もしてない。
信頼してみたのち、手に入るのは大きな幸せかもしれない。でも最悪の結末かもしれない。
私の生き方ってギャンブラーっぽく見られるけど、私からしたらみんなの方がよっぽどギャンブラー。
Will you marry me?
大抵、男女交際の果てには結婚がある。
結婚は素敵だと思う。大切な人の結婚式に出席すると本当に感動するし、なにより式場に漂う空気が好き。
私が結婚に踏み切った時はなにも考えていなかった。このまま幸せが延長して、その延長線上に出産なり色んなライフイベントが待ち受けてる。
だけど常にベースは「幸せ」みたいな。
「恋は人を盲目にするが、結婚は視力を戻してくれる」って言葉があるように他人と一緒に人生を歩むと決めたとき次々に色んな現実が叩きつけられる。
とにかく感覚ってのは人それぞれ違う。
一致する部分はたくさんあるけど細かい部分のズレが明白になる。それって本当最悪だけど、でも当たり前のこと。
だけど「〇〇な時に自分はこうする」って言うのが一致しないのは本当に地獄。
そこで「前向きな妥協」が出来る人は結婚に向いてると思う。私はそれが出来なかった。
小さな違和感がどんどん大きくなって、それに支配される。
恋において負の感情は時にスパイスになるけども、結婚となるとそれは不要。
直すから、どうにかするから、と言われても私は待てなかった。せめて何か「担保」みたいなものが欲しかった。
結婚する関係であれば担保なんてナシなのが普通なんだと思う。「担保」の代わりに「信頼」がある。
信頼がなかったわけじゃない。
とにかく待てなかった。
待ったとして、その先にあるのは本当に幸せ?この上ない幸せをくれるなら待つ。待つ価値はある?
だけど私は時間を無駄にしたくなかった。
時間もこの若い瞬間も、全て一瞬で過ぎ去る。
きっとこれは過ぎ去ってからだと大いに後悔するだろうし、その時間は二度と戻ってこない。
それらを天秤にかけてしまった私は、世間からの信用に繋がり多くの人が目指す「結婚」を捨てて世の中に落ちてるギラギラしたキモチイイ「何か」に賭けることに決めた。
もしかしたら今は長期的な幸せを捨てた分、ギラギラしたキモチイイ「何か」を集めるのに必死なのかもね。
その身近なギラギラしたキモチイイ「何か」は、誰かが落としたゴミかもしれないけど。
曖昧な幸せはいらない
ていうか結局、私はどこまで行っても自己中心的なんだと思う。自分で自分を守るための自己中。
こんな「超快楽主義」的生き方でも、もちろん傷付くこともあるし立ち直れないくらいボコボコにされることもある。
そういう時こそ一時の快楽に身を任せていい。
そういうことを繰り返すうちに悲しみの濃度は薄まって、どんどん透明に近づいていく。
私は一瞬一瞬、最高に幸せだと思える場所に自分を置いてあげたい。幸せをもぎ取って生きたい。見えない敵から自分を守ってあげたい。
この世は天国じゃないから思い通りにいかないのが当たり前。仕事が上手くいかなかったり、好きな人が浮気をしていたり、友達に裏切られたり、そういうことが平気である。
思い通りにならないこのクソみたいな世界を愛したいし、極限までギラギラしたキモチイイ「何か」を集めたい。
ていうか、やっぱり愛してる。愛してるから、この世で生きたいと思う。
来るもの選んで去るもの追わず。そもそも人を深く追わない。深く追われるのは大歓迎。
こんな生き方じゃ幸せになれない?
小さくて短い物差しで私のことはからないでくれる?