花マルが欲しくて
部屋の掃除をした。
私にとって掃除をすることは、ほぼ「モノを捨てること」。
「捨てられない症候群」の私にとって一気に掃除することは本当に体力がいる。だから毎回、一つの場所に絞ってそこから徹底的にいらないものを捨てるのだ。
私の部屋は半分、衣装部屋と化している。もちろんベッド、本棚、机など家具はそのまま置いてあるけれど、そこにプラスしてクローゼットに入りきらなくなった洋服を別の背の高いハンガーラックに掛けており、さらに「見せる収納」と題してシューズボックスにピンヒールやスニーカーを突っ込んでいる。
そもそも私は自分の部屋ではなくリビングの隣の部屋で寝ているし、書けば書くほど衣装部屋というよりまるで「倉庫」。
今日はその「倉庫」から学生時代のものを全て取り除いた。
実はいまだに本棚には学生時代の教科書やノートがおいてあったり、収納ボックスからは中学受験の時に塾で使っていた忌まわしい筆箱や中高生の頃のテストなんかが出てくる。
もうアラサーだよ私。
別に風水に詳しいわけでもないし、スピリチュアルに興味があるわけじゃないけれどなんとなく古いものをずっと取っておくのは良くない気がする。
昔の写真とは違ってテストや教科書は思い出の品じゃない。
そりゃあノートを開くと授業中に回してた手紙とか出てきたりもするけど、それにはもう鮮度がない。
写真は冷凍保存、その他は常温で保存されているようなもの。大抵のものは常温で保存していると腐る。冷たいようだけど、腐ったものには用はないのだ。
美しい瞬間は冷凍保存したい
学生時代の時、プリントを入れていたプラスチックのケースが出てきた。中には大量のテスト用紙と授業で使ってたルーズリーフ。
びっくりしたのはその中に小学生の頃に書いた遠足の作文が混ざっていたこと。小学生だよ、何年前?
その遠足の作文っていうのが本当に忌々しいもので、初めて自分の中で大切にしていたものを誰かに壊された瞬間だったのかもしれないと今になって思う。
作文は遠足で動物園に行った時に書いたもの。その時、国語の授業でちょうど「はじめに」、「次に」、「そして」みたいな接続詞を習っていたからそれを使って書くことを推奨されてる感じだった。
周りの子は像が大きかったとか虎が格好良かったとかお弁当が美味しかったとかそんなことを書いていた気がする。
集団行動が苦手だった私は別にみんなとまわる動物園はそこまで楽しくなかったし、動物園には初めて行ったわけじゃなかったから興奮も感動も薄くて「感想」なんてものは無かった。
だけどひとつだけ心奪われたものがある。
孔雀の羽が開く瞬間。
この世にこんなに美しい瞬間が存在していいのかと思った。あの瞬間、絶対に時は止まっていたし私の全てを一瞬にして持っていかれた。(気がする)
それと同時に人から美しいと思われていることをこの孔雀は分かっているのだろうか、この孔雀ってどんな気持ち?と孔雀目線で考えたりもした。
この美しすぎる瞬間は作文に書かなきゃいけないと思ったし、絶対に書きたかった。
…とまあこんなようなことを作文にして提出。
でもその作文に先生は花マルではなく一重マルしかくれなかった。反対に、箇条書きでどの動物を見て、お弁当を食べて、友達と行った動物園は楽しかった、って書いたクラスメイトは花マルをもらってた。
箇条書きで書かなかったからなのかそれともただ単に作文がヘタクソだったのか。その両方か、もしくはどちらでもないのか。
理由は分からなかったけれどショックで、悔しくてしょうがなくて、作文が大嫌いになった。
作文は定型で書かないと、花マルはもらえない。
あの頃、完璧主義だった私は花マル以外はゴミだと思ってた。
だから私はこの時、花マルを貰うために感じたことだけを素直に書くのはやめて、感性をちょっとだけ捨てた。
作文嫌いの過去の私へ
感性を押し込んだ作文って本当に書くのが苦痛だった。
あの時の一重マルのおかげで私の作文は本当にほぼ箇条書きで、読書感想文でさえ思うように書けなかった。
もし、一重マルなんて気にせずに自分の思うように学校で与えられた課題に感性を爆発させていたらもっと別の何かが自分の中で生まれてたのかな、とも思う。
自分の中で新しい表現が生まれて、今とは違う別の道に進んでいたかもしれない。前衛的なアーティストになっていたかもしれないし、はたまた芸術にハマってしまった末に自殺でもしていたかもしれない。
でもそんなのはタラレバの話。
感性を捨てていた期間は捌け口がなくてそこそこ苦しかったけど過去のことを言っても仕方ない。
今ではすっかり、人と違うことも平気で出来るようになったし評価も割と気にしなくなった。
見せる見せないは別として詩だってエッセイだって小説だって書いちゃう。一応、自分なりの曲げられない美学だってある。人に「何事も経験だよ」と言われて勧められることも自分の気が向かないと絶対にしたくない。それでとやかく言われても無視。私は、私が心地よく生きられる環境を作るために生きている。
このバチバチの感性を取り戻すのに10年以上。
おかえり、って感じだよね。
一生反抗期
結局何が言いたいのかというとね、一生反抗期のまま生きたい。
自分の周りの尖ってる部分を削ぎ落として社会の一員になりましょうっていうのが多分出来ない。
いや、出来るんだけど、一応今もやってるんだけども、感性のはけ口が必要で。
だけどそれでも間に合わない部分もある。
その時って死んでる。精神的に。
生ける屍、または活きのいい死体。
死んだように生きるのって本当に辛くて、本気で死んでやろうと思ったこと何回もあるけど結局死ななかった。
テンプレート通りの人生は絶対に向き不向きがある。
私はたぶん向いていない。
そのテンプレートから外れるってことは人からの文句なり陰口もセットで付いてくる。(もしくは金銭面での苦労)
やっぱり何か言われたら落ち込むし、お金がないってのも辛い。でも生ける屍の苦しさに比べたら本当にかすり傷程度。私にとってはね。
だからやっぱり中指立てて終了。
いじめっ子は常に凡人。
なんというか、本当にタフになったな私。笑
過去との決別?と称して作文たち45リットルのゴミ袋に突っ込んでバイバイ。
もう花マルも100点もいらない。