自尊心の低さは他責思考から来ていた。
こんにちは、やよいです。
2回目の投稿後、思った以上に多くの方々にフォローいただいて、驚きわなないております。
XもInstagramも非公開アカウントで生きてきた自分にとって、
日記をオープンにするというのはあまりにも大胆な行動に思えましたが、
思ったよりも心地よく、続けていけそうでホッとしました。
さて、今日も思ったことをつらつらと書いていけたらと思います。
🌸🌸🌸
最近気が付いた(というか気が付かないふりをずっと続けていた)ことがある。自尊心というのは、他人にほめられて伸ばすより、自分自身で高める方がよっぽどコスパがよいということだ。
「あたり前じゃん」と思った方もいるだろう。
そうだ。
そのあたり前に最近になって気が付いたのだ。
そのあたり前に最近になって正面から向き合おうと思えたのだ。
こどもの頃は自尊心の塊だった。
勉強はできる方だったし、何をするにも親が手放しでほめてくれた。
しかし高校で同級生たちの大人びて自立した様子を見て、自分はどれだけ幼稚で世間知らずなのかと思い知った。大学で自分より勉強でもスポーツでも人間性でも優れている人たちに囲まれて、自尊心がゴリゴリと削られていった。
ここで悔しさを糧に自分の成長につなげられたらよかったのだが、
残念ながらそうはしなかった。
「自分には秘めた才能があるが、まだ誰にも気づいてもらえていないだけだ」と謎の自信に満ち溢れ、歪んだ性根のまま成長してしまったのだ。
つまり、表面上は自尊心が泥のように溶けていっているように見えて、心の内側では幼少期から膨れ上がった承認欲求がどす黒い色でメラメラと燃え続けていた。
これほどまでにメンドクサイ性格に自分自身いいかげん嫌気がさしていたが、ある時転機が訪れた。それは夫と出会ったことである。
夫も自尊心の塊だったが、私の自尊心とは性質が異なっていた。
夫の自尊心はセルフメイドの自尊心だった。
あるとき、わたしは夫に聞いてみた。
「わたしはことあるごとに自信喪失して、自己嫌悪に陥って、殻に閉じこもりたくなるのに、どうしてあなたはいつもそんなに自信満々なの?」
それに対して夫はこう答えた。
「俺は俺が大好きだから。」
「…??」
「やよいは他人基準で自分を評価して、だれにも褒められなかったり、認められなかったりすると落ち込むみたいだけど、俺は生まれたときから自分のことが大好きで、俺がすることは全部正しいと思っているからあんまり落ち込むことはない」
(…ほう。凄まじい自己愛だな…。)
そう思ったが、実際そういう風に自分で自分の機嫌を取れる人というのは、
ものすごく「コスパがいい」のではないか。
たとえば仕事でよい結果を残せたり、テストでいい点を取れたりしたとして、上司や同僚、親や友達に評価してほしいと思うタイプの人は、仮に評価を得られなかった場合、いい成績を残せているにも関わらず、無意味に落ち込み、無駄にモヤモヤを感じてしまう。
反対に、平均的な成績だったとしても、過去の成績と比較して伸びていたり、何か一つでも成長した点を探し出して喜べるタイプの人が存在する。
このタイプの人は、失敗や間違いをしたことに対する「意味のある落ち込み」(≒反省)はするかもしれないが、他人の評価を得られていないだけで感じる「無意味な落ち込み」や「無駄なモヤモヤ」を経験しないだけ、トクな性格をしているのではないか。
自分がしたことの結果を他人の評価にゆだねない。
自分自身で自己分析し、評価点や改善点を見つけることができる。
そのため思考が非常に建設的であり、他人の評価に一喜一憂するためのエネルギーを消費しない分、効率的でもある。
物事がうまく行ったときに自分にご褒美を与えれば、承認欲求の代わりにもなり、心は同じように満たされるのだ。
すべてが自己完結する。こんなにコスパの良いことはないではないか。
まったく目から鱗である。
他人に一切興味のない夫は明らかに後者であり、常に自己肯定感が強く、自尊心が高くとも傲慢ではない。そんなポジティブ星人の夫と長く接するようになり、わたし自身も徐々に他人の目を気にしたり、他人の評価を気にしたりすることをやめた。
でもそれは生きることに手を抜き出しわけではなく、自己満足のために研鑽を始めたということだ。
自己研鑽を始めてみると、これもなかなか面白い。
今まで生きていた中で気が付かなかったことに気づき始めたからだ。
例えば、これまで特に気にせず見ていたYouTubeだが、数多あるチャンネルの多くの投稿者が、自己満足で動画を出していることに気がついた。
それでも多くの人が視聴し、結果的に投稿者に良いリターンが返ってくる仕組みになっている。
要するに、他人が自分を評価してくれるよう仕向けることはたいへん難しいが、自分がよいと思えること、楽しいと思えることを自己発信することはそんなに難しくない。そうしてそれを続けていると一定の人が視聴し、評価し、結果的に自分にもリターンが返ってくる。
ものすごく当たり前のことを言っているが、これだけ生きてきてそのような視点はこれまで持ち合わせていなかった。
また、自分がしていることは正しいことだと常に信じ込むことも大事なのだと気が付いた。そうすることで判断の軸がぶれなくなるからだ。
「こうすれば他人から承認される」「だれだれから提案されたからやる」このようなモチベーションで物事を始めてみるのもよいことだと思うが、「でも自分がやりたいことと矛盾するな」や「これで本当にいいのかな」というように自分の思いと対立したり、悪い予感がするようであれば、ここは自分の意見を優先するようにしたい。あとになって後悔したくないからだ。
とにもかくにも、他人本位から自分本位へモチベーションをシフトすることによって、わたし自身かなり生きやすくなったと感じる。
三つ子の魂百までというが、大人になって身に着けたこのような考え方がいつまで続けられるか、二十代の魂はいつまで効力を発揮するか、自分自身が責任を持って確かめてみたい。
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あとがき
写真は以前訪れた山口県の特牛灯台。
小さくて地味で、誰が見ているわけでもないが、自分の役割を果たし世の中のためになっている素敵な灯台だと思いました。こんな風になりたい。
さて、今回書いてみて、自分は自分が思っている以上にめんどくさい性格をしているのだなと思いました。(いやあ、本当に。。。)
こんなわたしの性格を知ったうえで結婚してくれた夫よ、ありがとう。
でもこんな風にnoteを投稿するようになったことで、自分自身もよい風に変わっていけそうな予感がしているので、地道にがんばっていきたいと思いました。
読んでくださってありがとうございました。