視聴して考えたこと「BEUYS TV 第2回 ― ボイスとフェミニズム」

「BEUYS TV 第2回 ― ボイスとフェミニズム」(Goethe-Institut Tokyo)を見ました。「ボイスとフェミニズム」を中心にしつつ、より大きな話として「アートの社会性」についての話だったと理解しました。

トークメンバーのおひとりである笠原さんから「かつてアートは当然のようにリベラルであった。それを今は学校でも教えない。」といった趣旨の発言があり、そこからいろいろと考えたので書きます。

リベラルとは、「1.個人の自由や多様性を尊重する「リベラル」。2.各人の自由な人生設計を可能にするため国家の支援が必要と考える「権力による自由」(Wikipedia)」ということですが、トークのコンテクストや自分の興味関心から、このテキストでは「リベラル」を「社会に対して個人の考えを表明すること」と緩やかにとらえてみます。

笠原さんの発言を聞いて私が思ったことは、まず、たしかにそうだなと。ただ、芸術の純粋性を目指すために、あえて作品から社会性や個人の考えを排除していくような芸術活動や潮流もなかったっけ?(芸術学の授業で習ったような、うろ覚えだけど。。)それについてはどう考えればいいんだろう?ということでした。自分の知識もふわふわしていたし、よくわからなくなってきたので知人と少し話してみました。

私「芸術の純粋性を目指すために、あえて作品から社会的な意味を排除していくような潮流って、あったよね?」                 知人「そんなのないでしょ?例えばなに?」                 私「マーク・ロスコとか、李禹煥とか、あとミニマリズムとか?」    知人「あれらめっちゃ社会性あるじゃん、芸術の在り方について意見表明してるんだから」                           私「芸術の分野の中ではそうだけど、社会問題とか福祉とかとは無関係じゃない?」                              知人「それはそうだけど、芸術とはなにか・美とは何かというのはとても社会的な問題でしょう。たとえば建築でいえばザハだって、今まで水平垂直の空間しかなかったが、曲線の有機的な空間をつくった。その空間に来た人は今までと違った感覚を感じられるわけだから、社会に生きている人に影響を与えるという点でとても社会的だよね。」               私「そうね」

私は今まで、社会問題を解決する姿勢があることが社会性があることと同義だと思っていました。そして社会問題とは、既に問題と言われている課題(高齢化とか環境問題とか孤立とか)のことだと捉えていたようです。そしてその社会問題と作家の美の感覚が掛け合わされて、何か作品ができるようなイメージをしていました。社会問題は時代的背景や政局などの外部から発生する一方、美は作家の内部から発生していて、それぞれ別のところから発生した「社会問題」と「美」をかけあわせて作品ができる、といったイメージです。                              でも、今回笠原さんのトークから考え知人と話したことによって、「美」を考えること自体が社会性をもつ行為であると気づきました。社会は作家の外部に当然のように存在していて作家はその影響を受けているので、作家の内面から「美」を考えることは社会に対して足りないと思っていることをあぶりだしますし、こんなものがあったらいいのにといった感覚と無関係ではない。

既に課題とされている社会問題をテーマにしているにせよ、一般的には定義されておらずわかりにくい課題をテーマにしているにせよ、作家がそこへの強い思いを持っているかどうかで、作品の社会性の有無が別れるのだと気づきました。例えばシェアがはやっているからシェアする際に過ごしやすい空間を考えました、といわれて設計案を出されても、そこには社会性を感じないし、同時に作家の美学も感じない。作家の強いこだわりがないからです。でも例えばシェアという概念がまだないころに、作家の経験や強い思いから、今の人たちにはシェア空間が欠かせず、シェア空間でこんなに豊かな経験ができるのだといった考えと共に今までにない設計案が出されていれば、それには社会性を感じるし作家の美学も感じます。(おそらくシェアという言葉を使っていないだけでそのような提案をした建築家は過去にいると思う。)

上記のシェアの例を考えてみて気づいたのが、すでに命名されているような社会問題は外から与えられた課題であり、作家の内面から出てきた課題ではなく強いこだわりを伴いにくいので、社会性を持ちづらいと思いました。「シェア空間」の命名前に内的動機からそのようなシェア的空間を提案をした人(たち)がいたはずで(具体的には私の知識では出てこない、不勉強すみません)、その提案には社会性や美学があって、だからこそのちの世に「シェア空間」という概念がでてくる、といった順番なのではないでしょうか。

もちろん、私たちの親世代や先生世代は、いわゆる命名された社会問題も自分事であった時代を生きていた(学生運動・貧困問題・ジェンダーなど)ので、命名された社会問題と内的動機ががっちりと結びついて作品を作っていた、ということはあると思います。                   現代では大きな社会問題はすでに解決されていたり、解決されずに諦められたり、解決しないままずるずると存在したりしていて、自分事ととらえられる社会問題はあまり多くありません。さらには、親世代の反動からか、社会問題にあまり深くかかわるなという教育も受けてきた気がします。そして、社会問題自体が細分化個別化してきているともいえます。そういった状況の中で、すでに課題として命名されているような社会問題に向かうより、個人の内面を見つめてそれを発信する、そのことがだれかの内面の問題をやわらげたりする、というような個人と社会(の一部である個人)のつながりが現実的であるように思いました。社会性を持つ行為とは、社会の大きな問題をとくことではなく、社会の一部であるだれかに影響を及ぼす行為と捉えられます。このように考えてきて、今までうまく理解できなかったリゾームの概念を初めてイメージできた気がしました。(これは、先日ライゾマティクス_マルティプレックス展を見た影響もあります。恥ずかしながらRhizomatiks ←rhizomeも初めて気づきました。)

いろいろと書きましたが自分のスタンスをはっきりさせておきます。前のノートで社会的なことにも興味があるが、それをテーマにするのではなく設計条件と捉えるほうがいいのかもしれない、と書いていました。ここでの「社会的なこと」とは、高齢化などの生活の変化に建築が対応していないことを指しています。それについて私はそれほど強い思いは持っていません。ただ建築が生活の障壁にはなりたくない、高齢化への対応が必要ならすべき、という程度です。ですから高齢化への対応は私の設計テーマにはなりえず、設計条件と捉えることになります。住宅に当然キッチンやトイレがあるように、当然高齢化への対応がなされているものとして設計していくという意味です。設計テーマはこれとは別に存在することになります。       では私の内面からくるこだわりとは何なのか。それが設計テーマとなり作品の社会性となります。肝なので記事はここでわけます。


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