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雑記 9 私と猫 猫を飼うということ-2

或る日のこと。
とあるペットクリニックから電話があった。
今日予定していた猫の手術に必要な血液を、昨夜の急患に使ってしまって足りなくなった。ついてはお宅には猫が複数いると聞いたので、血液型を調べさせてもらい、もし適合するようであったら、献血してもらえないか、と言うことだった。
猫にも血液型というものがあるそうである。日本猫にはA型が多く、洋猫にはB型が多いのだそうである。今回緊急に必要になったのは、B型の血液。
なるべく体重のある猫を、とのことで、7キロのイワンと5キロのタロと踏切猫を連れて行った。一つのケージには2匹をギュウギュウに詰め込み、わあわあ、言われて、タクシーでクリニックへ。

幸いうちの猫はどれもB型で、お役に立てそうであった。
ところが、ある女医さんが、ツカツカと私のところに歩みより、
「早く! 早く、あの白い大きい猫をしまって!」と厳しい口調で言った。
「あの猫、猫エイズですよ」

「そんな言い方はないだろう!」と奥から、男性の医師の声がして、
「せっかく我々のために来てくれているのだから、言い方ってものがあるだろう!」
と二人は喧嘩になった。

「だって猫エイズじゃありませんか!」

びっくりするやら、喧嘩の真ん中に入って、当惑するやら。

結局イワンはすぐにケージに戻し、タロが首元を四角く毛剃りされて、献血のお役目は果たせた。

帰りのクタシーの中で、そうか、、、と思い当たることがあった。
イワンはそれで棄てられたんだ。多分。

家に帰り、さっきの女医さんの声が繰り返し繰り返し、耳の中で響いた。
猫エイズ。とはいえ、私は、猫エイズについては、何も知らず、どういう症状が起きるかも知らなかった。

うちには猫が他にも4匹いる。
イワンを連れ帰って、その「猫エイズ」なるものが全員に感染する可能性がないとは言えない。

しかし、、、

これは想像だが、それが原因で家の外に放り出され、長く放浪を続けて、やっと辿り着いたのが 我が家。
この家に入れてくれ、の懇願は、並の猫に出来ることではなかった。

玄関の前に、正座して、3時間。テコでも動かぬ、という強い意志が感じられた。
たまたま台風が来て、激しい雨風が吹き荒れ、あの時は、神田川が水位を超えて川べりの家はたくさん床下浸水した。一夜放浪の猫に宿を貸す、つもりが、そのままうちの猫になった。たまたま前の家の居心地が悪くて、飼い主の隙を見て脱走したとは考えられなかった。

彼が来てから2年。
特に変わったこともなく、病弱である、ということもなく、うちの猫に混じって、普通の暮らしをしていた。
今更、猫エイズ、と言われたって、という気持だった。

人間のエイズも、ニュースなどでは聞くが、実際に身近にそういう人がいたことはない。
どういう検査が知らないが、猫エイズと決めつけて、忌まわしいものに触れたくない、と激しい声をあげたあの女医。
調べてみると、そういう因子を持ちつつ、症状として表に出ない猫もいる、ということだった。

迷うより何より、仕方ないだろう、というのが、私の気持ちだった。
病気が原因で捨てられたのかは、分からない。その可能性はある。
人間であれば「富める時も病める時も」と誓いを立て、助け合うものであるのに、猫だと簡単に、捨てれば良い、ということになるのだろうか。
しかしまた、家で暮らす他の猫に感染して、全滅、ということにならないとも限らない。
それは分からないことだけれど、昨日まで知らずに平和に暮らしていたものが、危険を感じてイワンを遠ざけたりすることになるのは、あまりに悲しい。

ずべては、私の判断。私の責任。
良いことするならば、神様はそれをちゃんと見ていて、決して悪いようにはなさらない、などという、信仰の本にあるようなことを、疑いもなく信じるほど私は能天気ではない。
だが。

よし、このまま、何もなかったことにしよう、と私は決めた。
そういう検査結果が出ても、もう一度精密検査をしたわけではない。元気に呑気に暮らしているのだから、そのままで。それはたった一回の検査の結果のこと。私には確かめられない。

猫エイズのことは、その後、かかりつけの動物病院の先生にも言わなかった。
もし、その可能性があれば、まず医師が気が付くはずであるし、イワンはたびたび獣医にかかるほど病弱でもなかった。

ただ、その晩、夫だけには、今日あったこととして報告した。
夕飯の卓袱台で座った夫の膝に両手を預けて、何か美味しいものが落ちてくるのではないか、と上を見上げていたイワンが、ふっと立ち上がって、部屋の隅に行って座り直した。

「エイズって言うなら保健所かな」
と一瞬思った、と言う。それが聞こえたに違いない。

幸いなことに、猫エイズは我が家では他の猫に感染せず、それぞれの猫がまあまあの寿命を全うして旅立った。
結果論であるが、これでよかったのだ、と思う。
良いことも悪いことも、全てを引き受けるということ、これが私が猫と暮らすということである。

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