助け合えない私たちが目指すものとは|「おいしいごはんが食べられますように」
名久井直子さんの装丁に惹かれて購入した「おいしいごはんが食べられますように」は今年の芥川賞を受賞。それは「口にしにくいことを言葉にしてくれてありがとう」という最高な一冊でした。
どこにでもいそうな人たちのありふれた日常が急に事件になる。
「女性」というものはこうあるべき、「仕事」というものはこうするべき、「ごはん」というものはこう食べるべき、という誰が決めたのかすら分からないルールが延々と積み重ねられている社会で、本当は誰もが生きにくさを感じているのに、誰もがその「社会のルール」から逃れられないでいるような気がする昨今。
その繰り返しが日常になり、社会の空気が歪み、ある日突然それは暴力となって可視化され「ルールは壊れている」と皆が気がつくのに、何も変えられず、それでも「社会のルール」の中で生きていく。
そして、社会は暴力を振るった者を個人的に徹底的に攻める。なぜなら、ルールは絶対、だから。
その「絶対」は壊れているのに、人生は続いていく。年老いていく…。
本書に、その事実を突き付けられた気がしました。
もちろん暴力で何かを解決できるとは思いませんし、暴力は悪いことだと断言した上で、人間は暴力というものを持っていたから生き延びたのも事実だと思います。
人間は本来狩猟民族だった、といわれていますが、狩猟にしろ農耕にしろ共同体を作り、他の共同体へ攻め込む暴力性を持った生き物だったから国家という「社会」が形成されたのではないでしょうか。
だから、社会はどうしたって歪んでいるし、弱者に対する暴力はなくならない。ならば社会システムとしていかに暴力を防ぐのかを考えた方が現実的だと考えさせられた本書。
という一文が文学を超えた何か重要なものを読者にあたえている気がしてとてもとても心に残りました。
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話は少し脱線するのですが…
「みんなで食べるものがだいたいまずいっていうのは分かる気がする」
という一節があり、なぜだかこの一節にとても息苦しさを感じました。
フードエッセイスト平野紗季子さんの「生まれた時からアルデンテ」という本の中に
「人と繋がることができなくてもいい、自分にしかわからなくてもいい。たとえそれがよそからみれば卑屈で孤独でも、せめて食べることについては純粋に喜びたい。誰かと一緒じゃ曲がれない道もあるのだ」
という一文があります。
私はこの文章がとても好きだったのですが、本書を読んでから改めて読み返してみると、私たちは何かを「美味しい」と感じることさえ他者の価値観に迫られ続けながら生きている。それはなんと息苦しいことではないか、としみじみ思いました。
現代は平野さんが書いたように「誰かと一緒じゃ曲がれない道がある」まさに「個」の時代だと思うのですが、そうやってみんなが個性を目指すことは、結果的に「個を善と考える集団」になっているだけなのではないのかなぁ、と思います。
今のままでは「個」の責任や能力がただただ分散されているだけで、皆で助け合う「集団」のあり方があまりにも定義されていないように感じます。
「集団」を定義できないままでは、社会をより良くするリーダー像は定義でき得ない。
ということは、「日本は海に囲まれた島国で、里山は美しいし、漁業、農業も盛んですよ。おいしいごはんがたべられる美しい日本を守りましょうね。」といくら「個人」が日本の特殊性を主張してもそれを組織化して実行するリーダーがいないのです。だから何も変えられず、ただただ閉塞感が漂った国になっている。
私たちが今考えるべきは、新たなリーダー像ではなく、どんな「集団」でいたいか、ということではないのでしょうか。
とはいえ、それはとても難しいことですが…
大好きな心理学者・河合隼雄さんが書かれたエッセイにこんな言葉があります。
「敢えて灯を消し、闇の中に目を凝らして遠い目標を見出そうとする勇気は、誰にとっても人生のどこかで必要なこと。最近は場当たり的な灯を売る人が増えてきたので、ますます自分の目に頼って闇の中に物を見る必要が高くなっていると思われる」
私がこの言葉がいいなぁ、と思うのは真っ暗闇にこそ希望が存在する、と勇気が湧いてくるところです。
さて、少しまとまりがなくなってしまいましたが、リーダーを求めるには、まずは「個」である私たちの在り方を考えるべきなのかもしれないなぁ、と考えさせられた本書。
誰もが社会に居場所を見つけられ、何らかしらの人の役に立ち、その中で幸福を感じ、おいしいごはんが食べられますように…!!