【UTAU短編小説】美味いパンをもらった話 / 凶街モルテ
Happy 8th Anniversary, Morte!
見方が変われば事情も異なるそうで
#1
夕方、ふああと伸びをしたら、どこからか手のひらにパンを置かれた。はて、なんだろう。妙なこともあるもんだ。溶けたバターの香りが漂う店の中、辺りは静まり返って誰もいない。ただ遠くに聞こえるカラスの声だけが、うっすらと響き渡るだけである。これは俺に食えってことだろうか。暫く悩んだものの、いいや、好意で手渡されたものを断るほど、俺も非道い奴じゃない。なので俺は礼を言って、そいつをありがたく頂戴することにした。持つだけで剥がれそうなクロワッサンの生地にかぶりつくと、ジュワッと広がる塩味の効いたバターオイル、ふんわりとした甘い生地、それらが全て口の中で織り交ざる。ああ、美味い。今日はなんて良い日なんだろう。俺は生前、きっと良いことをしたに違いない。
#2
夜、近くの食堂で何を食うかと迷っていると、奥の席の方から、楽しそうに話す声が聞こえてきた。聞き耳を立てれば、中年くらいの男の常連客が、観光で訪れた若者に語っているようだ。
「なあ、兄ちゃん。兄ちゃんは亡霊を見たことがあるかい? 私はある。しかも驚くな、ついさっきのことだ。私は普段、小さなパン屋を開いているんだけれどね。夕方、そろそろ店を閉めようと思っていたら、いきなり床からヌッ……と人間の手が生えてきてさ! そんな唐突に塩などないもんだから、慌てて傍にあった塩パンを乗せてやったら、手がするするーっと地面に吸い込まれて、なんとかお帰りいただけたよ」
男はワザとらしく安堵のため息をついた。なんて恐ろしい、聞いただけで逃げたくなるような話だろう。しかし、塩パンで身が守れるのであれば心強い。せっかくだから、俺も持ち歩くことにしよう。
そうして男の話を聞いていると、今度は店の名物の話になった。男が語るには、焼き鳥丼が美味いらしい。それもただの焼き鳥ではなく、炭火で焼いた本格的な焼き鳥とのことだ。しめた、これは良いことを聞いたぞ。俺は逸る気持ちを抑えて、近くの素朴な銀の席で利口に待機した。そうして目の前に運ばれてきたのは、ああ、これぞ至極の一杯。少し焦がした鶏肉と、あまからいタレと、刻み海苔と、白飯の香りが、さもがっついてくれと食欲を煽る一杯だ。うん、確かに美味そうだ。強いて不満を挙げるなら、周囲が少しガヤガヤと騒がしいけれども、家族水入らずの会話というものは微笑ましいもので、別に悪いものじゃあない。しかし、ああ、食う前から分かる。これは間違いなく美味いやつだ。こんなご馳走にありつけるのだから、俺は生前、きっと良いことをしたに違いない。
#3
翌日あの食堂に向かうと、入口の隅に、「本日貸切」という、とうてい人の字とは思えない奇妙な書体で書かれた貼り紙があった。構わず中に入ると、他の客からは見えにくいところで、食堂の主人やパン屋を営む常連客といった商店街の面々が、まるでこれから地球防衛会議でも始めるかように、緊迫した面持ちで話し合っている。しかし、まあ、恐らく腹が減っているか緊張しているかで、気が張りつめているだけだろう。そういう人間にこそ、あの思わず顔がほころぶような焼き鳥丼を是非とも食べてもらいたい。であれば、仕方ない、他の店を探すしかないようだ。俺は心の中でご馳走様でしたと手を合わせ、新しい夕飯を探すことにした。どうしたものかとフラフラ歩いていると、ふと、甘い菓子のような惹かれる香りが漂う。見渡してみれば、なるほど、いつも公園でクレープを売っているキッチンカーが近くに来ていたらしい。考えてみれば、夕飯にはまだ少し早い。甘いものに舌鼓を打ちながら決めるというのも悪くないだろう。最近の俺は実に運がいい。こうも首尾よく美味いものと巡り会えるのだから、俺は生前、きっと良いことをしたに違いない!
#4
「……そういえばお姉さん、聞きましたか?」
某所、暇を持て余したタクシードライバーが、客の女性にこんな話をした。
「馴染みの食堂の主人が、面白がって話してくれたんですけどね。ひと月前、妙な食い逃げ騒ぎがあったそうですよ。犯人はなんと透明人間。食事の注文が入ったのでシンクの上に置いたら、それが見る見るうちに消えていったそうで。そう、まるで、誰かに食べられるように。厨房にいた主人と家族は騒然。しかも不思議なことに、確かに手書きの伝票は残っているのに、注文した客も、注文をとった覚えのある店員も、誰一人として居なかったそうです。まあそのあと、魔除けの塩パン──そう、隣のパン屋で売っているあの名物商品です──と、寺でもらった御札を入口の隅に貼ったら、出なくなったらしいですけれどね。お姉さんも気を付けてくださいよ。気が付いたら、食べようとしていたアイスがひとかけ、なくなっているかもしれませんから」
Character ▷▶ 凶街モルテ