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ネガティブな言葉に耳をかたむけるな、というけれど
自分にとってネガティブな言葉に耳をかたむけるな、気にするな、というけれど実際に気にせずに流せる人はどのくらいいるのでしょうか?
ネガティブな言葉ほど自分の中に染みてきて、長ければ年単位で記憶に残ります。否定される言葉ほど、自分にとってそれが価値のあるものかのような錯覚を起こさせて、記憶からは消されず、むしろ強烈な存在感を残してとどまります。
ネガティブな発言で、まるで自分の人間性すら否定されているように感じる言葉を受けることは、働いていると実際、何度も受けることがあります。
最近の気づきとして、人間性の完璧な人は存在しません。目的があって生きている人、目的なんかなくてもただ生きることに価値を見出している人。人間だって、ただの動物の一種類に過ぎなくって。他の動物に比べて秀でているように見えるけれど、多分そんなことはなくって。完璧に見える人が、すべての人間に受け入れられるわけなんかなくって。見た目も、性格も、その人にとって良いか、悪いかでしかないのです。
他人の主観に乗っかられて過ごすなんで、どんなにばかばかしいことなんだろう。
周りの人に比べて何かを評価することの無価値さを自覚する。
ただそこにあるだけの、何かの世界の物差しではかることに意味なんてあるのでしょうか?
私たちの価値が他の動物に理解されるのでしょうか?
これまで、うまれてきたもの、つくり出されたに対して心を奪われるな、というわけではありません。
ネガティブな言葉や、視線や、態度は虫歯のようなものです。
自分の意思とは別のところで、自分の中に存在して、ケアをしなければ自然になくなることなんてないのです。できてしまった虫歯を自分の力で治すことはできません、軽いものであれば治すことができることもあるかもしれません。
適切なケアや治療がなければ、一度できてしまった虫歯をなくすことは難しいのです。
否定されたことをケアするには、他に心を奪われるものに夢中になるか、その
環境から身を離すか、共有して負担を減らすか、自分の中だけで解決することは困難です。
気軽に忘れなよ、流しなよ、と言われても一度受けてしまった言葉を流すことなんてできません、一度そこに存在してしまったのですから。
思っているよりも忘れたり、流すことって難しいことなんだと自覚して対処していきたいな、と思った日でした。
自分が悪い時には改善するにはどうしたら良いのか、対策を考える必要ももちろんあって、手放しに相手の言葉を無視することをお勧めしているわけではありません。ただ、たったわずかな自分の人生の年月を誰かの物差しの上で決めつけて生活することの馬鹿馬鹿しさに気づいたのです。