優しさの真似事は優しさ
「優しさの真似事は優しさ」って藤原基央が言ってた。そう、大体のことは藤原基央が既に言ってる。
俺は分からなくなった時、見えなくなった時、BUMP OF CHICKENのことを考えてる。
昨今、多様性を認めようとか、環境に優しくしようとか、障害や疾病、珍しい特性を持って生きている人たちに配慮しようという動きが高まるにつれて、
その動きに反発する人の声が日に日に大きくなっていると思う。
そもそも、ポリコレ、コンプラ、SDGs、そういうものは、「優しくあるべき」という思いの元出来上がった思想、運動なはずだ。
誰かが誰かに優しくあろうとすることが、何故批判されるのか。それは、その優しさが時に誰かの自由を奪ってしまうことになり得るからだと思う。
大好きなNetflixのドラマ「SEX EDUCATION」の最終シーズンが秋に配信された。
とてもリベラルな校風の新しい学校を舞台に、上の話題のような、「そのリベラルさはかえって不自由じゃない?」という疑問に対して考えるストーリーになっていたと思う。
ネタバレにはなるが、とても印象に残った最終話のセリフを引用する。
「この学校の、優しくあろう、みたいなの本当にくだらないって思ってた。
誰も完璧になんかなれないし、あんた達は尚更そう。
でも、みんな世界を良くしたくてやってるんだって気づいた。
それで、自分もいい人間になりたいって思った。」
(訳:俺)
SEX EDUCATIONのストーリーには、様々な人種、セクシュアリティの人や身体障害者など多様な登場人物がいて、それぞれが物語を持っている。特にS4では、トランスジェンダー、ノンバイナリー、アセクシャル、聴覚障害者など、S3までであまり描かれなかった人々に焦点を当てていた。
こういう試みは、世間的には「ポリコレ配慮で、これでもかと詰め込んだ」とか、「当事者から省かれたと文句が出ないように、全部扱わなきゃいけなくて大変だな」なんて思われてしまうかもしれない。
実際すごく詰め込まれていたし、その分メインの登場人物であるメイヴやオーティスのお話をもっと見たかったと思う声があってもおかしくないとは思った。
ただ上に引用したルビーのセリフは、こんな全ての「ポリコレ批判」に対するカウンターとして、最終話に用意されたんじゃないかと、思った。
みんな、「世界を良くしよう」と思ってやっている。
もしそれが、世界を良くすることに役立たないのだとしたら、じゃあどうしたらいいか一緒に考えなきゃいけない。
それは無駄だ!間違ってる!と攻撃するんじゃなくて、自分もどうしたら優しくなれるのか考えるべきだ。
なんでこんな話を急にしたくなったのかというと、最近はそういうコンプラへの反発から、世間の興味が次第に過激なもの、破天荒なものへ及んでいくような予感を感じるからだ。
今までの世の中には、過激で人を傷つけるようなもの、人を不快にさせるようなものは隠して、見なかったことにしようという動きがあったと思う。
それは一種の優しさでもあって、例えば、それでも過激な主張や表現をしたい人は、ご自由に、日陰でこっそりやれば良かった。
誰かの目の前にそれをわざわざ突きつけて、露悪的にぶちまける必要なんてなかった。
今、インターネットは刺激の強いものから順番に人々の前に突きつけてくる仕組みになろうとしている。過激さは単純に「バズる」要素になってしまうと思う。
その裏にある意図だとか、渦巻いている色んな事情を差し置いて、赤黒い血の色や面白おかしい言葉だけが売り物になっていく。
リスクを背負って過激な表現をする、なんて時代ではない。恥さえ捨てれば、過激なものほど受け入れられる時代になってきている気がする。
俺はそういう世の中になってしまうのが嫌だ。
コンプラもポリコレも、きっともっとちゃんと考えればみんなの幸せのためになるはずだと思う。
みんなが笑って楽しめるなんて夢のような話だけど、そんな夢のような話もしていたいと思う。