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『廉太郎ノオト』(中央公論新社)のさらなるノオト④廉太郎さんの曲の改訂と、廉太郎さんの人生と
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以前、「瀧廉太郎都市伝説なんてありえない」という話をしました。
まあ、わたしからすればただの与太話にしか聞こえない都市伝説(そもそも都市伝説なるものがある種の与太話であることは間違いありませんし、そのメンタリティの根底に政府不信が根差すのは、まあ当然といえば同然かなあとは思います)なのですが、一方で、廉太郎さん死後の彼の曲の扱われ方を見ていくと、何やら不思議な展開をしているというのも事実です。
今日は、廉太郎さん死後、彼の曲に深く関わったある作曲家の話をします。
その人物は廉太郎さんの死後すぐ、東京音楽学校に入学したのち、声楽科を卒業します。その後、岩崎財閥の支援の下海外留学も果たし、作曲を学んで日本に帰ってきます(日本における交響曲作曲第一号はこの方の有しているレコードです)。そして、彼はやがて日本のフィルハーモニーやオペラ普及のために精力的に尽くすようになります。
音楽史に詳しい方ならぴんと来られたのではないでしょうか。そう、山田耕筰(1886-1965)その人です。
この方の年譜を見ていると、ある意味、廉太郎さんが辿るはずだったかもしれない未来を見るような気持になります。もちろん廉太郎さんが長生きしたとしても交響曲にまで手を伸ばすようになったかは未知数ですし、もしかしたら作曲家というよりはピアニストとして有名になっていたかもしれません。けれど、日本の音楽史において、フィルハーモニーやオペラを育てた(それゆえにどこかしら興行主的な気配のある)山田耕筰さんの姿は、廉太郎さんのIFの一つとして検討可能なんじゃないかなあというのがわたしの個人的な感想です。
とまあそれはさておき。
実は山田耕筰さん、廉太郎さんの遺した曲のうちかなりのものを編曲しています。
廉太郎さんはピアノ曲二曲(「メヌエット」「憾」)を除いては歌曲の作曲をしています。しかし、これらの曲の多くは歌声の作曲ばかりで、伴奏を付している作品は多くありません。そのため、現代知られる廉太郎さんの歌曲の多くは、山田耕筰さんの校訂・伴奏バージョンのもので知られています。
「春のうららの隅田川」で知られる「花」もそう。あの曲もソプラノとアルトの作曲こそ廉太郎さんですが、伴奏は山田さんの手によるものです。
そして、中にはかなり派手な改訂がされている作品もあります。
何を隠そう、「荒城の月」です。
この曲、発表からしばらくして、「曲調がロマ音楽のようだ」という指摘が上がるようになりました。この雰囲気を作っているのが「春高楼の花の宴」という歌詞の「花の宴」の「え」に当たる部分のシャープなのですが、山田耕筰さんはこのシャープを削除しています。
瀧廉太郎さんのファンはこの改訂について思うところあるかもしれませんが、一方でこの改訂のおかげで「荒城の月」が一般性を得たともいえますし、また現代の皆さんは山田校訂バージョンに親しんでいるわけで、わたしとしてはこれはこれで仕方のない、というか、廉太郎さんの曲にリスペクトを抱きつつ、より一般性を高めたという意味で山田さんの校訂は悪くないんじゃないかなあと思います。だからこそ、今日にまで「荒城の月」は残ったといえるわけですし……。
恐らく、「廉太郎都市伝説」が生まれた背景には、こうした「校訂」がなされた歴史的事実もあったのでしょう。現代の感覚だと違和感がありますが、西洋音楽の受容期である明治大正期ならではの出来事なのかもしれません。
そして、滝廉太郎という人物の未完の人物であったという証をそこに見ます。わたしは数々の校訂を経てしまった廉太郎さんの歌曲に国家の陰謀を見るのではなく、むしろ若死にした楽聖の伸びしろを見てしまうのです。