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自分の人生を、自分の足で歩む勇気をくれる場所 #soar応援

この記事は、ウェブメディアsoar4周年に寄せたコラムです

「大抵のひとは、一生懸命生きています」

尊敬しているある人が、ぽろっと口にしたことばが心に残っている。

そう、私たちは大抵、一生懸命生きている。

どれだけポジティブで悩みなどなさそうに見えても、たくさんのものを持っているように見えても、何を感じながら生きているのかはその人にしかわからない。

その人が感じていることは、その人だけのものだ。

「人生」が一編の小説だとしたら、同じ作品はこの世にひとつもない。

要約するとほとんど同じになるものはあるだろう。

例えば(あくまで一例として)

「就職して、結婚して、子育てもしました。いろいろなことがあったけれど、総じて良い人生でした」

こんなふうに人生を要約したとして、それと近い作品は他にもある。でも、要約するときに省いてしまった場面ごとの感情や、何かを選択したときの心の動きは、100人いれば100通りあるはずだ。

何を当たり前の話をしているんだろうという感じだが、私たちはそこをよく取り違える。つまり、人の幸せや苦しさを容易に「わかった」気になってしまうのだ。

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「わかる」は漢字で、「分かる」と書く。分類して、箱にいれるようなイメージだろうか。

例えば「苦しさ」の根本に、「発達障害がある」「鬱がある」「虐待を受けたことがある」「身近な人を亡くした」といった事実があるとする。

それらと同じ箱(カテゴリ)に入る苦しさを経験したことがあったり、その分野への知識があったりするとつい、「分かる」と言いたくなる。

自分の経験と比較して、「私のほうが大変だった」とマウンティングのようなことをしてしまうこと、逆に、「人と比べたら私の苦しさなんて、大したことない」となかったことにしてしまうこともある。「●●(障害名)の人はこうだ」と、主語を障害や病名にして語ってしまうことも。

そういうことを繰り返してるとだんだん、自分がどこにいてどこに向かっているのかわからなくなる。

感じ方はその人だけのものだ。カテゴライズして「分かる」ことはできないし、その人の苦しさを否定することは決してできない。

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soarの記事は、一本がとても長い。私が今まで執筆した記事にも、一万字を優に超えるものがたくさんある。それは、インタビュー相手のストーリーを要約したりカテゴライズしたりせず、場面ごとの選択やそのときに感じたことをじっくりときいて書くから。

障害や病気などについてわかりやすく知識を得られる情報は他にもあるかもしれないけれど、「その人が何を感じ、どんな選択をしたのか」を知るには、その人に会って話をきくしかない。だから読者に「まるでこの人に会って話をきいたみたいです」と言われると、うれしい。

soarでインタビューをしたり記事を読んだり、イベントに参加したりすると、「わかる」ことはできなくても「わかち合う」ことはできるのだなとしみじみ思う。

その人の話をきいて、いっしょに感じてみることはできる。自分と相手の人生が交差する点を見つけたり、寄り添ったり励まし合ったりすることもできる。私自身、何度そのようにしてsoarに救われたかわからない。

私たちは大抵、一生懸命生きている。

自分の幸せも苦しさも自分だけのもので、他人にジャッジされるものではない。一方で、一人で孤独に抱えているのがしんどいときは、「わからないけど、わかりたい」と思ってくれる人たちと、わかち合うことができる。

その中身は違ったとしても、それぞれの人生の「ままならなさ」を互いに労いあえるようなつながりを、ゆるやかにはりめぐらせることはできる。

そう思うとなんだか肩の力が抜けて、自分の人生を自分の足で歩む勇気が湧いてくるのだ。

5年めのsoarもきっと、自分が自分の人生の主人公でいるための勇気を多くの人に与える存在であるはずだし、私もその一部でありたいと思う。

#soar応援 #エッセイ   #soar #多様性

(文・写真 八ツ本真衣)


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