円盤に乗る派『仮想的な失調』(でー)

初・円盤に乗る派。

幽霊、自我の喪失、顔の見えない誰かの欲望……すべてが仮想的な時代における、物語の”失調”

公演HPより

狂言の『名取川』と能の『船弁慶』を下敷きにした作品。狂言『名取川』は、与えられた自分の名前を忘れてしまった僧が、たまたま通りかかった川の名が「名取川」だったことで「川に名前を取られた!」と勘違いして怒る話。能『船弁慶』は義経の西国落ちを題材に、前半では愛妾・静御前との悲しい別れ、後半では平家の怨霊・平知盛との闘いを描く物語。『名取川』は元の狂言が相当シュールで2024年現在でも斬新な驚きに満ちている。友人曰く「キングオブコントの決勝に出ててもおかしくないネタ」。『船弁慶』もまた、「幽玄」という一般的な能のイメージとは異なった割とシュールな作品である。前半と後半が脈略なく繋がり、物語の妙よりも、前半の静の優美な舞と、後半の知盛の勇壮さを同一のシテ(主役)が演じ分けるという趣向の面白さを全面に押し出した作品である。『船弁慶』は世阿弥の甥の子の作で、世阿弥よりもだいぶ時代が下り、物語重視の幽玄な能ではなく、歌舞伎に通じるようなエンターテイメント作品という印象。

そうした二つの古典作品を、今作では、「常に複数のSNSを使い分け、様々なアイデンティティを駆使する現代の生活」にアダプテートした、という体である。現代と言いつつも、物語の冒頭で狂言回しの役をする幽霊によると、ディストピア的な近未来なのか、パラレルワールドなのか、あるいはゲームの中の世界なのか、とにかく実際に私たちが生きる現代とは違った世界のようである。「ハッピーマート名取店」というコンビニで「なとり」という店員に名前を取られたり、九郎義経をもじったQ太郎が、静御前ならぬ犬のシズチャンとの別れを惜しんだり、原作で源氏に滅ぼされる平知盛は、SNSの炎上によって自殺したヒラオカクンの幽霊として登場したりする。ただしそれらが現代版として再解釈されているのかと言われるとよくわからない。そこが一番気になった。能や狂言の設定の面白さを現代の設定に単純に置き換えただけに見えるのだが、どうなんだろうか。

俳優たちの演技については、それぞれに無感情な台詞回しという点では共通しつつも、微妙に演技の質感は異なっている。語尾を少し引き伸ばしたような喋り方の人物もいれば、どこか架空の方言のように訛った喋り方の人物もいる。質感の異なる演技体が同じ舞台に存在し、かつ同じ劇世界を成立させているのはすごいことである。ただ、そのことによってどういう効果を生み出したいのかは判然としなかった。

共同創作のあり方、創造的な場の作り方、コミュニティの継続の仕方という点で常にチャレンジをしている印象がある円盤に乗る派。コンセプトが作品に結実していくことを強く期待しつつ、今後も観ていきたい。

円盤に乗る派『仮想的な失調』
2024年9月19日〜22日
東京芸術劇場シアターウエスト
https://tokyo-festival.jp/2024/program/emban-noruha/

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