チェルフィッチュ× 藤倉大 with アンサンブル・ノマド『リビングルームのメタモルフォーシス』(でー)

人間中心的世界からの変容。ゲリラ豪雨をもたらす真っ黒な雨雲が青空を一瞬で暗くするように、カラフルな衣装を身に纏った俳優たちが気づけば次第に黒い者たちにけちらされて舞台の隅に追いやられ、舞台から色彩が消えていく。色彩の消失と同じように、俳優たちの演技によって立ち上がっていた人間たちのドラマは、異様な訪問者の登場により破壊される。俳優たちが舞台上で台詞を喋っているという点では変わらないが、前半ではナラティブに沿って役柄を生きていた俳優たちが、後半にいくにつれて抽象的なセリフを発する単なる一人の人間となる。こうした舞台のありようの変容に、音楽は並走していく。常に鳴り響くわけでもなく、ドラマを強化するというわけでもなく、断続的に、自律した音楽が演奏家たちによって淡々と発せられる(ここでの音楽は「奏でられる」というよりは「発せられる」といった趣である)。

当日パンフレットには、演出家の岡田利規による本作の意図が下記のように記載されている。

今回わたしたちが目指したのは、フィクションを身体に帯びさせることでゴールとするのではなく、そうした身体を媒介にして空間にフィクショナルな変容を施してみせること。そして、そのようにして変容した空間を、音楽がそこに注ぎ込まれる容器とすること。

チェルフィッチュ的な身体、すなわち俳優がセリフに対して行うゆっくりとした不条理な動きによって、「ここではリアリズムとは異なるフィクションが上演されている」という前提が作り出されている。そこにさらなる不条理が、”異様な訪問者”として物語に闖入してくるわけだが、そこに音楽が絡み合うことで、フィクションとしての強度は担保しつつ、〈フィクショナルな変容〉をもたらそうという試みであったと理解する。

今回の公演でその狙いはどの程度達成されたのだろうか。内容面でも、借家の契約が不当に破棄されることへの抵抗と人間関係のこじれというありふれた人間のドラマに対し、気候変動という人間を超えた問題が対置される。「人間から自然へ」という〈変容〉のテーマは、チェーホフの『かもめ』の第一幕でトレープレフが上演する前衛劇を彷彿とさせたが、『かもめ』でもそうでったように、テーマとしての切実さよりも形式面でのチャレンジの意識が強かったように思う。
このチャレンジに最も不可欠であったのが音楽の要素であるが、(音楽に関しては完全に門外漢であるが)個人的には少し音楽が遠慮がちに感じた。音楽と演劇がお互いに自律しながら有機的に交わるということが肝要なはずだが、音楽が思いのほか伴奏のようなっている瞬間も多く、もう少し音楽がかき回す展開になる場面があってもよかったのではないかと思う。浄瑠璃では太夫と三味線が一つの物語を共同で立ち上げるが、良い浄瑠璃は太夫と三味線がお互いに寄り添うということはせず、相手を食ってやろうという気概で高め合うべし、ということがよく言われる。今作でも、俳優と演奏家が、劇作家と作曲家が、演劇と音楽が互いに火花を散らす展開になってもよかったのではないか。……という幾分個人的趣味の混じった要望ではあるが、そんな思いが残った。

チェルフィッチュ× 藤倉大 with アンサンブル・ノマド
『リビングルームのメタモルフォーシス』

2024年9月20日 (金) ~9月29日 (日)
東京芸術劇場シアターイースト

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