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自己否定をする人は、他者への興味も持てなくなる。その理由とは?
ブログ・ヤトミックカフェのオーナー/自己肯定感の探究家・矢口泰介と申します。先日開催された文学フリマ東京39にて、自己肯定感をテーマにした「どうにもならない」という同人冊子を上梓しました。
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自分の生きづらさの克服を追い求め、「自己肯定感を高める」というテーマにたどり着いたのですが、まだまだ道半ばの探究報告といったところです。
冊子は完売に至らなかったので、引き続き次回の文学フリマ東京でも販売する予定です。
今回は、「自己否定をすると、他者への興味も持てなくなるのでは?」という仮説を考えてみたいと思います。
自己否定をしているのは誰?
自己否定は自分で自分をいじめることです。これがやめられると、生きやすさが格段に向上すると思います。
「自己否定」の厄介なところは、「自己否定」をしているのは、実は純粋な自分ではない、というところです。
生まれながらに自分で自分を否定する人はいません。自己否定とは、人生のどこかの段階で学習した習慣なのだと思うのです。
人生のどこかで、あなたは誰かにジャッジされていたのではないでしょうか。「そんなんじゃダメだ」「全然足りないぞ」と、ありのままの自分でいてはいけない、ということを強烈に学習した経験があったのだと思います。
自己否定は、人生のどこかで、誰かの基準に合わせてジャッジされた結果、ありのままの自分を否定し、誰かの基準に合わせようとする、という処世術が内面化したものなのではないでしょうか。
しかし、いつの間にか目指す基準はなくなり、処世術だけが、つまり理由もなくありのままの自分を否定し続ける思考習慣だけが残ってしまっている、それが自己否定の思考習慣なのです。
自己否定をつづけていると他者に興味が持てなくなる
裏を返すと、自己否定とは「常に自分をジャッジし批判し続けている」思考です。そういう自己否定の習慣が強烈にできているとき、果たして、他者のことを考えたり、思いやったりする余裕は生まれるでしょうか?もっと言うと、他者に対する興味が持てるでしょうか?
私の考えでは、とても難しいと思います。
常に自分を監視しジャッジする習慣がついていると、思考はヘトヘトになり、他者のことを思いやる余裕は生まれません。ありのままでいてはいけない、かといって何を目指せばいいかわからない、とにかく自分はダメだ、という声を内面化して、24時間、自分をいじめているわけですから。
また、自分をジャッジする人は、他者もジャッジするようになります。これは不思議ですが、自分に不当に厳しい人は、人にも厳しいです。自分に対してダメ出しをする人は、人にもダメ出しをします。同じ物差しを当てようとします。「自分は自分、人は人」という線引きができなくなります。
自己否定とは、自分だけをいじめるのではなく、人間への見方を固定化してしまう行為なのではないでしょうか。
自己否定をやめると生きやすくなる、というのは、自分だけでなく他者に対するジャッジもしないようになり、「人は人、自分は自分」という線引きが自然にできる、ということを表しているのかもしれないですね。