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生きることの豊かさにふれたいと思いながら、たぶん辿りつかない

湯川さん 押田さん

すごくいい手紙をいただき、ありがとうございます。
あんな素晴らしい文章の後に、 何を書こうか考えていました。何を書いたらいいのだろうか、とぽかんと考えている。自分に何が言えるんだろうか?何か言いたいことがあるだろうか?と。「何も思いつかないターン」をぐるぐるとしばらく這い回っていました。

この苦しさをどうかご理解いただければと思います。

近所のスーパーには、頭とか内蔵とか、魚のあらが安く売っていまして、ときどき買ってきます。昨日も買ってきて味噌汁にしました。

  • 安いのに旨い(あら汁、あら煮、全て旨い)

  • 実本体のドンピシャではないが、味わいは同じ

  • 安いからなんなら失敗しても良い(ムダにせずいただきますが)

というところがおおらかで、安らかな感じがして、好きなのかもしれません。
ただ、家族には、私の魚のあら料理はそんなに好評ではない。別に不満はないが、私ほどの熱狂はありません。

私の、自分自身に対する扱いや認識は、こういう「雑に扱っても良いもの」という感覚と通底している、ような気がしてしまいます。

文芸誌「新潮」の大江健三郎の追悼号を読んでいたところ、2004年に寄稿された大江健三郎のエッセイが再掲されていました。

私は最初の短編『奇妙な仕事』を発表したところだった。それまでにも、幾つか試作をしていたことは事実。教養学部の学生のための雑誌に印刷されたものもひとつあった。しかし、これらを書きながら私は――これは本気でやってるのじゃない、と考えていた。そして、本気じゃないことをやっている自分を――つまり怠惰に時間を潰している自分を――肯定することができなかった。若い時によくある、日々の生活にまぎれ込んでは一時なりとそこを占領してしまう悪習のひとつとして、引け目を感じていたわけなのだ。
(略)
私がそのように時たま数日かけて書く短編を本気じゃないとみなしていたのには、辛い理由があった。自分の書いているものには文体がない、と私が知っていたからだ。
(大江健三郎「難関突破(ブレックスル―)」)
※文中太字は本文では傍点

この文体のなさ、はもっと深遠な話、そして才能や努力によって乗り越えられたものの話をしているので、卑近なものに引き付けて話すのは失礼なのだと思うけれども、自分自身にも、この「自分には文体がない」という言葉から喚起される感覚があった。それは「自分には確固たる芯がない」という感覚です。自分という人間は、いったいどういう人間なのか、ということを自分で表すことができない。

おそらくこの「芯がない」「土台がない」という不安な感覚が、私という人間を構成する成分の多くを占めております。

私自身の人生を充実して送ることや、正常な人間関係をどこかで妨げている。私の人生はそういう感覚とのたたかいなのだった。

前回の私のターンで、対話というものを「自分も変容させられる覚悟があるかどうか」と書いたことをあらためて考え直してみると、わざわざそういうことを言うというのは、変容させられるだけの「自分」がちゃんとあることを感じる、ということへの(歪んだ?)喜びでもあったかもしれません。

それは「自分が他人に関与する」という大層なことを「許される」「自分で許す」という感情的な敷居を、えいやっとまたぐことでもあった。

つまり、対話というものをやる前の大前提としての「ちゃんと一人の人間として生きること」自体が、私にとっては困難な感じを持っていて。
対話を語ることは、暗に、その困難を自分がすでに乗り越えたということになる。そんなことをさらっと書くまでに私はたどり着いたのだと。
それは自分にとってはすごいことだが、人には全く理解できないかもしれない。人生とはそういう密やかなタタカイの舞台なのでもあるかもしれません。

「違国日記」、今年の4月〜5月にかけて一気に買って読み、先日最終巻を読みました。評判を聞いてたのですが、読んだらやっぱり良かった。人をちゃんとその人として関係する、自分を損なわずに伝え合う、ことの難しさ。あんな微細な感情やコミュニケーションの微分は、とっても難しいけれど、人生の豊かさの可能性を見せてくれた気がします。

私にも人生の豊かさを感じる可能性があるだろうか。
人の何気ない思いや感情に心を寄せることができない。人とつながりを作ることが苦手。「芯がない」「土台がない」という感覚があるせいかどうか知らないけれど、人とうまく話をできる感覚がないという話。

子どもを育てる上で課題にしていたのが、この「芯のない感覚」を引き継がせたくないということです。明らかに自分の状態は、絶対に育成環境に起因しているところが大きいと思うから、子どもを育てるときは気をつけたいと思っていた。
でも結局は、自分の未熟さもあって、ズルズルと「ああはなりたくないな」という負の感情を引きずり出されるような状況が何度もあり、気がつけば子どもの自己肯定感を叩き壊すような場面を何度も作ってしまい、自己嫌悪で頭が真っ白になることが多かった。

「心からご飯を美味しそうに食べるのがわかって、とてもまぶしくてその人のことを好きになったんですよね」
と昔、後輩から恋愛話を聞いたことがあって、心に残っていました。ひたむきに、ひねくれずに、まっすぐに生きている人は、それだけで人を惹きつけます。
素朴に思っていることを口に出すだけで、いい話になってしまう人がいる。それはちゃんと心からそういうことをちゃんと思っているからで、「ああ、この人はなんて真面目に、ひたむきに生きているのだろう」と感銘を受けてしまいます。

そういう人に私はなりたい人生で、私はきっとそういうものを目指しているのだと思うのですが、おそらくきっとも叶うことはないような気もして。そういう豊かさに触れようと試みることのヨロコビについて思うような気がします。

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