サイボウズ式第2編集部(#サ式)の新年会で見つけた愛すべき分人
今日は、サイボウズ式第2編集部(#サ式)の新年会&最近転職した人のお祝いだった。
19:30から22:30まで3時間。飲んで話して飲んで…あっという間だ。
全然関係ない話をすると、仕事絡みの飲み会は疲れることが多い。
話題の取り合い、または譲り合い。業務のつながりもあるから、声の大きい人がその場を仕切るみたいなところがある。
もしくは、逆に話す頻度が少ないので「最近どう?」といった話から、徐々に会話を深めていく場合もある。共通の話題が見つかれば、話は次々と転がるのだけど、それまでがもどかしかったりもする。
たまに、相手の名前が思い出せないこともある。
「名前は、たしか…なんだっけ。なんだっけなんだっけ…?」と、思い出すほうに気持ちが向かって、話の内容が入ってこないことも、たまにだけどある。
そういう飲み会は、疲れる。
話すことに集中できないからだ。
サ式の飲み会は、不思議なことに少し違う。
オンラインチャットやTwitterの#サ式でつながっているので、会うのが3ヵ月ぶりでも久しぶりだという感じがしない。
「あの企画、いいっすね」と、前置きなしに入っていける。バラバラの場所から集まってきてるのに、距離が遠い気がしない。同じ会社で働いてるような、向いている方向が同じ感覚がある。まるで、ひとつのチームのようだ。
それでいて、遠くもないし、近すぎもしない。話すことは自分たちが好きなことばかりだ。
好きなアイドルの話から、本の話、書いたブログの話、少し先の将来の話…。
どれも、血が通って生き生きとしてる。あの人がどう思うかじゃなく、自分がどう思うか、の話ばかりだ。
小説家・平野啓一郎さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ』のなかで、こんなことを書いている。
なぜ人は、ある人とは長く一緒にいたいと願い、別の人とはあまり会いたいと思えないのだろう? 相手が好きだったり、嫌いだったりするからか? それもあるだろう。しかし、実際は、その相手といる時の自分(=分人)が好きか、嫌いか、ということが大きい。
例えば、ある人といるときは遠慮がちで言いたいことが言えない自分になり、別のある人といるときは活発で好きなことについて延々と語る自分になったりする。
人は、一緒にいる相手によって、鏡のように自分が変化する。
そして、変化した自分によって、自己肯定感を得られることもある。
誰かと一緒にいることによって、いつも笑顔でいられる、自分の気持に嘘をつかなくていい、まわりの人にやさしくできる…そういった「好きな自分」になれる。そういう自分って、いいなと思える。だから、その誰かと一緒にいたいと思うのだろう。
ぼくにとってのサ式は、そういう場所なのかもしれない。